秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

山への憧れ ~「わが山歩記」より

 

 

 

小生は1975年(昭和50年)から1994年(平成6年)の20年間、山歩きを楽しんだ。記録で確認できる限り、111回の山行をしている。

 最後の登山は1994年10月16日。14年後の2008年に『わが山歩記』と題して執筆した。時期的なズレはあるが、クラシック音楽と並ぶ小生の大切な趣味の記録である。『わが山歩記』は全部で44頁からなるが、その中から“総論”ともいうべき最初の9頁を<山への憧れ>と題して、掲載することにした。最初の頃は息子の同行もあるが、その後は単独登山に終始した。

  

<はじめに>

 小生は現役時代に20余年、時々山に出かけていた。単独山行で低山中心だったので、知っている人は多くない。山に行かなくなってから、既に14年が過ぎた。少しまとめてみる気持になり、少しづつ登山記録を整理しながら書きかけてきたが、今回やっと完成にこぎつけた。いわば、自分史の第三段である。

 

 1)山との距離

 何しろ、東北の山村で生まれ、文字どおり山に囲まれた集落で育ったので、特に「山」を意識することはなかったように思う。ただ、生家の畑は小高い峠を越えた所にあったので、見晴のいい峠から遠くの山々を眺めた、「高いところから遠くの山々を見る景色はいいなあ」と思った。しかし、高い山は遠くから眺めるもので、それに登ることなど考えも及ばなかった

 現役時代、夏になると山岳部の人たちが登山に出かけ、真っ黒に日焼けして帰ってきた。夏は忙しい職場だったので、休みも簡単にとれない情況だった。だから、山岳部の連中が真っ先に休暇をとって山に出かけるのを、不愉快に思い反発さえ覚えた。職場に戻ると行って来た山のことばかり話しているのを聞き、「山がそんなに良いのか。俺なんか山の中で育ったんだぞ」と、心の中で呟いたものだ。

 そんなこともあり、♪山男にゃ惚れるなよ、とか、♪俺たちゃ街には住めない・・・の山の歌は好きになれず、“山男”は人種が違う位に思っていた。また、山行きは“現実からの逃避”と云われたり、思ったりしていたから、「俺は逃げないぞ、山になんか行くものか」と強がっていた。この様に、山村に生まれ育った自分は、山に登りたい気持は全くなかった。むしろ、「山なんて、俺には関係ないさ」ぐらいに思っていた。

 

 2)山への親近

 ところが、40歳を迎える頃から、健康のための山歩きを考えるようになった。昼休みの皇居一周マラソン(ジョギング)を5年間続けたが、そのうちに走るのも飽きた。いわゆる仕事などのストレスも感じるようになり、それまでバカにしてきた山に目が行き、「俺も山に行ってみようか」という心境になった。

 それでも、山岳部の連中や友人と一緒に山行きする気持にはなれず、「独り歩き」の道を選んだ。誰にも拘束されず、自分の都合のよい日、気が向く日に山へ自由に出かける。それが良いと思った。また、群をなし、リーダーの指揮で動くことへの抵抗感があったのも事実だ。結局、20年余り山歩きをしたが、最初から最後まで独り旅を通した。

 

 3)山歩きスタート

 確か1973年(昭和48)の37歳の夏に、山へ足を運んだのが山歩きの始めだったように記憶している。

 最初に登った山がどこだったか思い出せないが、メモが残っていて確認できるのは、39歳の秋(1975/昭和50年)に息子二人と三人で行った奥多摩(御岳/日の出)だ。しかし、その前に2年ぐらい何処かの低山に行ったように思う。子供を連れて行ったのは、自分が行ったことのある安全な山に限ったからだ。肝心の最初の1・2年の「記録」がないし「記憶」も定かではない。

 よくは思い出せないが、最初の頃は「高尾山」「大山」「奥多摩」「奥武蔵」あたりの山歩きだったのではないか。そのうちに、子供を連れて出かけるようになった、と考えられる。子供も大きくなるとついて行かなくなったので、それから単独の山行きが本格化した。

 人間わからないもので、敬遠していた筈の山に一旦行き始めるや、その魅力に取り憑かれ、結局20年余り山歩きを堪能したことになる。何だかんだ言っても、山国育ちの自分は山と無縁では済まなかったようだ。(「わが山歩記」)

                    (秀樹杉松 82巻2380号)