秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

藤沢周平『蝉しぐれ』

  主人公は牧文四郎。幼なじみおふくとの悲恋も。 /  Atelier秀樹

 

 『三谷清左衛門残日録』に続いて、同じく海坂藩を舞台とする武家物語『蟬しぐれ』を読みました。残日録、蟬しぐれ、風の果て、など藤沢作品の書名が大好きです。今回は本文の文章の一部と、おなじみの向敏氏の解説を紹介します。これからお読みになる方の参考になるかも。

長編『蟬しぐれ』は、初章「朝の蛇」に始まり終章「蟬しぐれ」で終わる21章からなる。序章「朝の蛇」主人公牧文四郎がが育った普請組組屋敷の様子が、目に見えるように美しく描かれている。素敵な文章ですね。

 

<朝の蛇>(初章)から

 海坂藩(うなさかはん)普請組の組屋敷には、他の組屋敷や足軽屋敷には見られない特色が一つあった。組屋敷の裏を小川が流れていて、組の者がこの幅六尺ない流れをしごく重宝にして使っていることである。.......

 普請組の組屋敷は、三十石以下の軽輩が固まっているので建物自体は小さいが、場所が城下のはずれにあるせいか屋敷だけはそれぞれに二百五十坪から三百坪ほどもあり、菜園をつくってもあまるほどに広い。そして隣家との境、家家の裏手には欅や楢、かえで、朴の木、すぎ、すももなどの立木が雑然とたち、欅や楢が葉を落とす冬の間は何ほどの木でもないと思うのに、夏は鬱蒼とした木立に変わって、生け垣の先の隣家の様子も見えなくなる。.......

 文四郎が川べりに出ると、隣家の娘ふくがものを洗っていた。「おはよう」と文四郎は言った。.......ー ふくは、まだ十二だ。......

  頭上の欅の葉かげのあたりでにいにい蝉が泣いている。こころよさに文四郎は、ほんの束の間の間放心していたようだった。そして突然の悲鳴にその放心を破らた。....悲鳴をあげたのはふくである。.....青い顔をして、ふくが指を抑えている。「どうした?噛まれたか」「はい」「どれ」.....文四郎はためらわずにその指を口に含むと、傷口を強く吸った。 

蝉しぐれ(終章)から

 20年余の歳月が過ぎた。若いころの通称を文四郎と言った郡奉行牧助左衛門は、大浦郡矢尻村にある代官屋敷の庭に入ると、馬を降りた。……

 「この指をおぼえていますか」

 お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。

「左様。それがしが血を吸ってさし上げた」……

 どのくらいの時がたったのだろう。お福さまがそっと助左衛門の身体を押しのけた。乱れた襟を搔きあつめて助左衛門に背を向けると、お福さまはしばらく声をしのんで泣いたが、やがて顔を上げて振り向いた時には微笑していた。

ありがとう文四郎さん、とお福さまは湿った声で言った。

これで、思い残すことはありません」……

 

<向敏氏の解説>から

 蝉しぐれ』の主人公牧文四郎は28石2人扶持という小身の藩士牧家に養子としてはいった少年で、登場当初は15歳、まだ前髪立ちながら剣に天賦の才があり、城下の空鈍流石栗道場で将来を嘱望されている。物語はその文四郎の成長を追って展開してゆくのだが、彼の青春の日々は、青春の名にふさわしいようなものではなかった。

 父の牧助左衛門が藩政をめぐるお家騒動に巻き込まれ、反対派に与したために切腹を命ぜられるという事件が起き、その後、四分の一の7石に減石された牧家を継いだ文四郎は「ひと筋の糸ほどのか細さで残された家名」を保つのに汲々として生きねばならなかっただけである。そうした主人公の生き方に呼応するかのように、描法もきびしく張り詰めた緊張感に満たされている。

 『蝉しぐれ』は主人公牧文四郎と、その幼なじみで、のちに藩主の側室にあがったおふくとの悲恋物語でもあるのだが、その終幕近く、今は郡奉行となった文四郎が、髪をおろして尼になる覚悟をきめたおふくとひそかに会って相擁する場面がある。おふくは文四郎に抱かれたあと、「声をしのんで」泣き、やがて顔をあげて言う。「これで思い残すことはありません」と。   

 藤沢周平武家物語は、長短編を問わず、たいていが藩という組織社会を舞台としてくりひろげられ、登場する侍たちもまず藩士という身分職分を負った存在として描かれる。武家ものというとりは藩士ものと呼ぶほうがふさわしいような、そうした作柄のせいであろうか、その藩社会を今日の企業社会になぞらえ、藩士たちを企業の成員、平たくいえばビジネスマンに見立てて読むという読者がすくなくないと聞く。

 

NHKテレビドラマ>2003年、金曜時代劇、全7回

キャスト

牧文四郎:内野聖陽

ふく:水野真紀                               

                                                                          (秀樹杉松 87巻/2467号)2017,10.26   #107