秀樹杉松

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神楽坂と浄瑠璃坂 ~前号の補充など~

さすが「坂番付」1位と3位ですね。ちょっとした物語をどうぞ。  /  Atelier秀樹

 

 ◉前回の<坂めぐり>の記事で、今日のハイライトは神楽坂と浄瑠璃坂だど書きましたが、詳細を書き漏らしたので、補足することにしました。

 ◉神楽坂、浄瑠璃坂の2坂が江戸時代「坂番付」のトップと3位にランクされたのは、蓋し当然と言えるでしょう。地図帳で今調べたら、千代田区靖国から杉並区の青梅街道までの長い道路を早稲田通という。神楽坂は、靖国通(九段坂)から約800m西北の外堀通から始まる、早稲田通に含まれる。神楽坂下から神楽坂上までは約500mあり、坂上から地下鉄東西線神楽坂駅までも含め、約800mもの長さがある。前号の写真に掲載したように、商店街であり人の集まる繁華街でもある。因みに、高田馬場・新宿と共に、神楽坂は早大生の“心の故郷”の一つでもある。

 

<名称の由来>

 →津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を登ることができなかったが、神楽を奏すると容易に上ることができたため、この時から「神楽坂」の名がついたと記されている。

 

<逆転式一方通行>

 →神楽坂は、全国的にも稀な逆転式一方通行となっており、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する。午前中は「坂上→坂下」であるが、午後は「坂上→坂下」となっている。その昔田中角栄目白台の自宅から永田町に出勤し(午前)、帰宅する際(午後)に便を図ったからだともいわれるが、これはタクシーの運転手によって広まった都市伝説である。

 実際の理由としては、急激な交通量の増加で規制を求める声が上がり、その最中に通り沿いの陶器店に車が突っ込む交通事故が発生。これが元で規制が行われるものの周辺で大渋滞が発生したことから、1956年に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年に現在の逆転式一方通行となった。

 

<周辺>

 →神楽坂付近は大正時代に隆盛を誇った花街で、飯田橋を背にした坂の右手に残る花街特有の路地は、日本でもここにしかないといわれている。関東大震災以後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、夜店が盛んになった。山手銀座と追われた時期はこの時で、林芙美子矢田津世子の小説にも登場する。都市交通網の整備によって、神楽坂から銀座や日本橋に殷賑の地が移っていったと解している。

 *殷賑=いんしん(盛ん、賑わい、繁盛)

 2003年以後特にチェーン店やコンビニの進出が目立ち、漱石の通った田原屋など老舗が急速に減少しつつある。周辺でも次々にマンションが建設されており、昔からの風情は失われていっている。かつては江戸時代に蜀山人、明治期に尾崎紅葉泉鏡花などが住み、尾崎紅葉旧居跡は新宿区指定史跡、泉鏡花の旧居跡は新宿区登録史跡になっているそうだが、地図になかったので?今回は立ち寄らなかった。

◉「→」の文章はwikipediaからの抜粋引用だが、書かれている内容が昨日の神楽坂歩きでも実感した。

 一言で表せば、かつての繁華街・花街の名残を残しつつも、新旧渾然とした風景に満ちていた。細かく入り込んだ小路があるかと思えば、ビルやコンビニも目立ち、坂めぐりの難所でもあった。正直、随分苦労しました。しかしそれだけに、今でも魅力たっぶりの神楽坂界隈でした。

  

浄瑠璃坂> 

 坂標識

 坂名の由来については、浄瑠璃が行われたため、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東京浄瑠璃世界の主で当たった、などの諸説がある。この一帯で寛文12年(1672)に浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討ちの一つとして有名(坂標識。前号に写真掲載)。江戸三大仇討ち事件とは、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟での仇である河合又五郎を、伊賀国上野鍵屋で討った「伊賀越えの仇討ち事件」(鍵屋の辻の決闘)と、赤穂浪士討ち入り

 

浄瑠璃坂の仇討>

 寛文漢12年(1672)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田邸へ討ち入った。一族40人以上が組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後の赤穂事件において参考にしたとされる。この仇討ちは、伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり江戸の瓦版を賑わせて「武士道の範」として世間に感銘を与え、歌舞伎や講談の題材として取り上げられた。

 この地で操り浄瑠璃が行われたなどが由来の「浄瑠璃坂」と知られ、それに「伊賀越え仇討ち事件」が加わって、江戸時時代坂番付の小結横綱のない時代だから第3位)にランクされたことは頷ける。それにしても昨日の坂めぐりでは、この浄瑠璃坂を探すのに苦労しました。

 

<逢坂との出逢い>

 昨日の「新坂」探しにも手間取ったが、その理由は近辺に大きな屋敷があり、なんか知らないが、厳重な囲いで覆われていた。地図ではその脇道を入ったところが「新坂」なはずだが、それが見つからない。ここかなと迷い込んだ先に「逢坂」があったのに驚いた。①大坂(逢坂。今の大阪)が東京にもあったのか、②地図に載ってない予定外の坂を“発見した”ことの喜び、③前号の写真に載せたように、この「逢坂」の由来は、武蔵守がこの地で美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢った、というエピソードに接したこと。

 この坂は大変な急坂で車は通らない。保存されているのかな?この急坂で件の二人が逢っていたのか、としばし感慨に耽った。

 

最高裁長官公邸>

 そこへ、買い物帰りらしい主婦が坂を上がってきた。この坂のことでしばし立ち話。「ところで、私は新坂を探しているが見つからないで困っている。あそこの大きな屋敷みたいなのは、地図を見ると最高裁長官公邸となっているが、今工事中でしょうか」と訊く。「だいぶ前から使ってない」と教えてくれた。なんとなく工事中には見えない。偉い人の公邸や国家公務員宿舎が「やす過ぎる」「駅に近すぎる」などで批判を上受け、使用中止になったり払い下げされることを聞いているから、その一環かなと思った。

 何となく気になるので、今ウィキペディアで調べてm次のことが判明した。

 → 現在の最高裁長官公邸は1928年(昭和3年)に富山県廻船問屋として富を築いた馬場家の牛込邸として建築されたもの。1947年(昭和22年)から最高裁長官公邸として使用されてきた。築60年以上が経過し、近年では老朽化が指摘されていたが、2011年(平成23年)の東日本大震災によって倒壊の危険性が増大し、使用を中止。2014年現在においても、公邸の改修や建て替えのめどは立っていない

 

<二つの発見>

 違う通行人に相談して、新坂はやっと発見できました。昨日は、地図になかった坂を見つけ、どうしても探せなかった坂をやっと見つけた喜び。だいぶ難儀はしたが結果大オーライであった。

 

<右近坂と左内坂

 地図に従って探しても「右近坂」が見つからない。地元の方に何人か尋ねたが、「確かにこの道に間違い無いと思うが、ここは左内町で、この坂は左内坂と呼びます」。しばらく歩いたら確かに左内坂」の坂標識が立っている。右近坂が佐内坂に名称変更したのか。ならば地元の人が知らないはずはない。右から左への改名、なんかおかしい。坂を探せないで“右往左往”している俺をからかうつもりか!今思うに、すぐ近くに「右近坂」が実在するのでは?と思えてしようがないのです。

 

◉他にもエピソードがありますが、本日はこれにて。なお、3日連続で44坂を巡ってきたので、今日は休息も兼ねて、エピソード挿入としました。坂めぐりの挿話は、いろんな意味で「面白くてためになります」。お読みください。

 

 (秀樹杉松 89巻/2509号)2017.12.10  #blog<hideki-sansho>149