秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

葉室麟『蛍草』を読む。 月草の仮なる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ(万葉集)

 

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 葉室麟『蛍草』(2012双葉社)を読みました。その美しい書名蛍草(ほたるぐさ)に惹かれて。魅力的なのはきれいな書名だけではない、小説の内容も素晴らしい。風早家の女中「奈々」が主人公で、奥方「佐知」、嫡男「正助」、娘「とよ」、当主の「風早市之進」を中心に物語が展開される。この小説の初出は「小説推理」への連載であるが、葉室作品には珍しく?最後までストーリーの展開が続く。このまま終わるのかと思ったが、最終の2ページで意外な(私としては願った通りの)結末を迎えます。

 物語の内容には触れませんが、書名に用いられた「蛍草」に関する描写にどうしても触れざるを得ないのです。以下は小説本文からの引用です。/  Atelier秀樹

  

 夏の日はギラギラと照りつける。暑さを避けるように築地塀そばで日陰になっている草を取っていた時、奈々はふと手を止めた。堀の際に青い小さな花が咲いている。/  「露草だー」/  奈々は額の汗をぬぐいながら、嬉しくなってつぶやいた。青い花弁が可憐な露草は奈々の好きな花だ。早朝、露が置くころに一番きれいに咲いて、昼過ぎにはしおれてしまうから、摘んだりはしない。見かけた時にじっと眺めるだけだが、それでも幸せな気持ちになってくるから不思議だ。

 

 奈々がなおも腰を下ろして見入っていると、/  「その花が好きなのね」/  佐知の声がした。奈々はハッとして立ち上がった。/ 「申し訳ありません。草むしりをしていたのですが、花を見つけて、ついに手を止めてしまいました」

 

 奈々が頭を下げて言い訳をすると、佐知はさりげない口調で言った。/ 「謝ることはありません。きれいな花に目が止まるのは心が豊かな証ですから、ゆっくりと見て構いませんよ」/  奈々の傍に腰を屈めた佐知は言葉を継いで、/ 「露草ですね。この花を万葉集には月草と記してありますが、俳諧では蛍草と呼ぶそうです」 /  と教えた。月草や蛍草という名の響きに奈々は目を輝かせた。

 

 「蛍草……、きれいな呼び名ですね」/  深く心を動かされたように奈々が言うと、佐知は微笑んだ。/ 「そうですね。きれいで、それでいて儚げな名です」/  「蛍草は儚い名なのですか」/  佐知の横顔に目を向けながら奈々は不思議そうに言った。夏の夜に青白い光を点滅させる蛍のことはきれいだと感じるだけだった。蛍草という名を聞いても、蛍が止まる草なのだろう、とぼんやりと考えて、他に思いつくことはなかった。

 

 「蛍はひと夏だけ輝いて生を終えます。だからこそ、健気で美しいのでしょうが、ひとも同じかもしれませんね」 /   佐知は感慨深げにいうと、奈々に顔を向けた。「貴方の立ち居振る舞いを見ていると、武家の折り目正しさを感じます。紹介してくださった方は赤村のお百姓の娘だと教えてくれましたが、武家の血筋なのではありませんか」/  佐知に見つめられて奈々はどきりとした。(『蛍草』p.8-10)

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 庭で露草を見てしばらくたったころ、奈々が台所で水仕事をしていたおり、佐知が部屋に来るよう告げた。何の用事かと行ってみると、佐知は書物を広げて奈々に見るよう勧めた。/  和歌がいっぱい書いてあるらしいが、奈々は和歌を学んだことがないので戸惑った顔をしていると、佐知は指差して、/  「ここを読んでごらんなさい」と言った。奈々は、たどたどしく声に出して読んだ。

 

月草の仮なる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ

 

 という和歌だった。万葉集に作者未詳としてある歌だという。/  「庭の露草は蛍草とも月草とも呼び名があると話しましたが、これは月草を謳っていますから、露草の歌でもあるのです」/  佐知はそう言って、和歌の意味をよくわかるように説いてくれた。

 

 露草の儚さにたとえ、わたしには仮初めの命しかないことを知らないのだろうか、後に逢おうとあの方は言っているけれど、という意味だという。

 

 奈々が今ひとつ意味をつかみかねて首を傾げると、佐知は微笑んで、/  「一夜の逢瀬をを重ねた後、女人が殿方から又会おうと言われた際に、わたしは露草のように儚い命なのに、また逢うことなどできるだろうか、と嘆く心を謳った和歌かもしれませんね」/  佐知が説いてくれる話を聞いて、奈々は切ない心持ちがした。

 

 「奈々にはまだ早いかもしれませんが、ひとは相手への想いが深くなるにつれて、別れる時の辛さが深くなり、悲しみが増すそうです。ひとは、皆、儚い命を限られて生きているのですから、今のこのひとときを大切に思わねばなりません」

 

 佐知にそう言われて、なぜか目に涙が滲んできたことが脳裏に蘇った。/  (あのおりは、なぜ涙が出そうになるのかわからなかったけれど、今はわかる気がする)/  奈々には佐知が儚い露草であるように思えた。また庭に出て、そっと手を伸ばして露草に触れてみた。ひんやりとした肌触りが生きている清々しさを感じさせる。/  奈々は露草に触れながら、いつの間にか泣いていた。

 

 佐知の容体がさらに悪化したのは、秋に入ったころだった。(同書p.108~109)

 

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                 『秀樹杉松』90巻2539号  18/1/19  # blog <hideki-sansho> 179

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