秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

続・安岡章太郎『流離譚』。「安岡覚之助正義」(章太郎の曽祖父) の人物像と功績。

 

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冠雪の庭木

(今日東京に雪が降りました。東北生まれの私(Atelier秀樹)は、「♪ 犬は喜び庭駆け回る...」心持ちです。急遽、写真を載せました。)

 

 前号で、作家安岡章太郎の曽祖父「安岡覚之助正義」を取り上げ、戊辰戦争時に棚倉で一人で泣いていた少女を助けて白坂に預けた武将ではないか?と書きました。

 本号では、

 1)板垣退助総督のもとで軍監として活躍した、安岡覚之助正義が棚倉から親戚に送った書簡の一部を紹介します。「官軍」の暴挙や残虐なやり方を批判し「官軍」の矜持を守ろうとの姿勢が歴然としています。

 2)覚之助正義は会津の戦いで流れ弾に当たって戦死したが、その時の具体的な状況も明らかになりました。

 3)戦死した安岡覚之助正義の遺児が、父の墓を守るために会津に移住したが、その子孫:安岡正光氏(帝都高速度交通営団総裁)が安岡章太郎氏を訪ねて来たときの状況が、前号より詳しくわかります。 /  Atelier秀樹

 

<安岡覚之助正義の棚倉からの書簡>

 ◉六月十三日に江戸を出発した覚之助は、何日に白河に到着したか、その日付は不明であるが、六月二十四日の棚倉攻略戦には参戦しており、その模様を六月二十六日づけの手紙で、次のように伝えている。(編集註=読みやすいように、現代仮名遣いに直しました。以下同様)

→「奥州棚倉より一翰謹啓、(中略)当月二十四日未明に白河を発し、当棚倉へ相向い申し候。これは薩、長、大垣、忍、黒羽、本藩、六藩の兵なり。…棚倉へ向う。白河より二里参り、関という山峯より賊の大砲頻りに打つ。……それより棚倉へかかり候ところ、賊は一戦も致さず、城を放火致し逃走城外へも火を放ち候へども、余計は焼け申さず候。…… 兵隊は町家などに居り申し候。…」(安岡覚之助『流離譚』講談社文芸文庫版 下巻 p.240)

 

 ◉棚倉では総員八百名ほどの官軍兵士が民家に入り込んで泊まり、しかも町の人たちにかなりの悪事も働いたらしい。これについて覚之助特に薩・長両藩兵の暴状が甚だしいといって、次のように憤慨している。

 

→「……昨日などは諸藩兵と、(棚倉藩)家中などより近村あるいは町屋へ預け置き候荷物をぶんどりし、……なかなか他藩、薩、長と雖もこの辺まで軍令行き届き申さず、実に愁うべきの至りなり。賊のみを払い、三民を安堵せしむるが官軍の官軍たる所以なるに、却て三民の物を窃みとるようのことにいたり、官軍の名をけなすのみならず、斯くなりゆき候わば官軍を厭い賊に荷担するする者多く相成るべく、とにかく天下平定には至り難くと、頻りにこのへん御国より論を立て申すことにて御座候。…」 (同書 p.242)

 

 ◉虫食いの部分が多く、読み取り難いところがあるが、覚之助の言わんとしていることの大要は理解できる。但し、棚倉の土地の人の書き残したものを読むと、官軍の暴虐狼藉ぶりの凄まじさは、覚之助の手紙にある程度のようなことではなかったらしい。(同書 p,242)

 

 <棚倉鉄砲町の町人北谷友蔵の書き遺し>

→「……この近辺の庭鳥は、官軍さまがた右へ行き、鉄砲にて見付け次第にうち留め、手込めにころし召し上がり、この辺庭鳥一節は一疋もなし。二月、三月ほどもたね切りに相成り申候。…そのほかなど、など、ねこなど、うちころして、これも身の養定(生)に召しあがり申候。……格別のツミとがもなし、ただ阿部様へ付いてのみのことに首を落とされ申候」(同書 p.242)

 

 ◉町民は家を焼かれ、農民は食料を徴発され上に、鶏や、牛や、犬、猫まで、あらかた種切れになるほど殺され、「召し上がられ」てしまったのではたまったものではなかろう。官軍と言わず藩兵と言わず、戦場となった土地に住む者にとっては、軍隊はすべて「おそろしき事は限りな」いものという他はない。「格別のツミとがもなし」に、ただ藩主「阿部様にすけだちいたし」ただけで斬首…。(同書 p.243〜244)

 

 

<安岡覚之助戦死の状況>

 

 ◉谷干城の『東征日誌』には、その状況を次のように述べている。

  …… この日、死傷四人。中に軍監安岡覚之助を失う。惜しむべし。

 ◉また、『板垣退助君伝』は同じようなことを、一層簡単にこういっている。

   ……たまたま小監察安岡覚之助、流弾の当たるところとなり、竟いにこれに死す。(同書 p.309)

 

 ◉覚之助が会津で流れ弾に当たって死んだということは、私も子供の頃から何度となく聞かされて知っている。一体どんな弾丸で、どんな具合に飛んできたのかというようなことになると、一向にわからなかった。右の二つの文章を読みあわせても、それはわからない。(同書 p.309)

 ◉覚之助戦死の状況を最も詳細に述べているのは、法学士楠瀬保馬著『近藤勇土佐勤王党という昭和四年に高知県で刊行された本である。おそらく古老の話を丹念にきいて回ったものであろう。(同書 p,310)

 

 →「……此日の戦いは朝八時頃より正午に及んだ。…土州の軍隊より長州の軍隊に合図をする必要が生じた。多分追撃に関する合図であったと想像せらる。その合図をするため安岡亮太郎が胸壁の上に登らんとすると、側にいた安岡覚之助が、自分はわらぢをはいているも亮太郎は足駄をはいているのを見「おらが上がる」といいざま胸壁の上にかけあがり、其の隅に突っ立ち、身体の側面を敵に向けながら、ぬび上がって長州の軍に合図をした

 其の時早し、彼の時遅し、一発の敵弾、うなりを発して飛び来たり覚之助の耳のすぐうしろ(覚之助の郷里山北村にてやろくがつぼと称するところ)に命中し、急所の痛手にはたと倒れ、其の儘、そこに絶命した。… 年齢は三十五歳であった。覚之助の死後、敵軍は疲労に堪えずして退却を開始し、土軍はこれを追撃して前村に至り、其の宿所に放火して帰った。」(同書 p.310~311)

 

安岡章太郎と安岡正光(奥州の安岡)との出会い>

 ~下巻巻末の <著者から読者へ:題名の由来その他> から〜   

◉「流離譚」は戦時中(昭和17年秋)、私の家に突然、見知らぬ紳士が訪ねてこられたことから始まっている。来訪者の名刺には「安岡正光」とあり、肩書には「帝都高速度交通営団(現地下鉄)総裁」とある。私は一瞬戸惑わざるを得なかった。この未知の客は、年齢は私の父と同じくらいだが、地下鉄総裁が軍人の父の交友関係にある人とは思えなかった。おまけに安岡正光氏には、かなりハッキリと東北弁のなまりがある。それは父との私的交流を否定しているようなものだ。で、わたしは念のために言った。「父は、いま南方の戦地に出かけて。この家は留守にしておりますが」

 すると、安岡氏はふと苦笑ともとれる笑いをかすかに浮かべ、「それは承知しております。しかし近ぢか、山北から安岡秀彦さんがおいでになるそうですが、その際に是非、私のことをお伝え下さい」と、手短に慇懃な口調で言うと、それだけで引き上げた。

 三、四日して、その秀彦叔父が土佐から来て、我が家に泊まった。先日の正彦氏のことを話すと、「ああ、そりゃ奥州の安岡じゃ」と叔父は言い、「あれは覚之助の子孫で墓を守りに会津へ行った人じゃ、こちらも挨拶を返しに行かにゃいかんな」。

 覚之助が会津で流れ弾に当たって死んだ話は子供の頃から聞いていて、私も知っている。しかし、その子供が墓を守りに土佐から会津へ移ったことは、初めて聞いた。これが只の伝説ではなかったことが、次第にハッキリしてきた。そういえば正光氏は、短時間話しただけで東北訛りが耳についたが、安岡という時、ヤにアクセントがついて、これは 北方にはない土佐のナマリだ。そのことが私の耳に端的に残り、折節それが胸を打つような感じで、思い出された。(同書 p.525~526)

 

 <編集註>『秀樹杉松』は、本号から第91巻となりました。   ………………………………………………………………………………………

         『秀樹杉松』91巻2541号  18/1/22  # blog <hideki-sansho> 181       ………………………………………………………………………………………