しばらく休んでましたが、葉室麟の小説も一段落したので、東京台東区の上野界隈の坂めぐりをしてきました。5時間近くの時間をかけて13の坂を歩きめぐりました。坂歩きに付随する名所旧蹟は16に及びました。
上野といえば、西郷隆盛像、上野公園、上野動物園、清水観音堂、不忍池、寛永寺、谷中霊園などばかりだと思っていましが、今日の坂巡りで、正岡子規記念球場・句碑、森鴎外旧居跡、千代の富士像、徳川慶喜墓などを初めて見てきました。また、上野には清水坂(きよみずざか)と清水坂(しみずざか)の二つがあることも、今回知りました。
『秀樹杉松』本号には力が入りました。特に、西郷隆盛像、千代の富士像、徳川慶喜墓の写真はハイライトです。ぜひご覧ください。/ Atelier秀樹
<坂めぐりコース>
(地下鉄上野御徒町駅)
~車坂~上野公園~正岡子規記念球場~西郷隆盛像~清水(きよみず)坂~清水観音堂~上野動物園~不忍池~弁天堂~忍坂~稲荷坂~五条天神社~花園稲荷神社~森鴎外旧居跡~清水(しみず)坂~三段坂~善光寺坂~玉林寺~千代の富士像~三浦坂~あかぢ坂~真島坂~三崎(さんさき)坂~谷中霊園~徳川慶喜墓~御院殿坂~寛永寺坂~寛永寺~新坂
~(地下鉄上野御徒町駅)
<坂めぐりメモと写真>
車坂(椿坂)
JR上野駅公園口から線路沿いに南下する坂道。上野駅周辺に車坂と呼ばれる坂は二つある。もう一つは、両大師橋の東側。
上野公園
正岡子規記念球場
明治9年の開園式以来、130周年を迎えた、上野恩賜公園の記念事業の一つとして、平成18年7月21日に、「上野恩賜公園野球場」という名称から、「正岡子規記念球場」という愛称で呼ばれることになった。正式名は「上野恩賜公園正岡子規記念球場」。正岡子規はベースボールの愛好者であり、上野恩賜公園の場所で野球を楽しんでいたことと、アメリカのベースボール用語の日本語を作成した功績などにより、この名称が用いられることになりました。
西郷隆盛像
西郷隆盛の銅像は鹿児島市と霧島市にもある。なぜ上野公園にも置かれることになったのでしょうか。理由の一つとして、上野は彰義隊(徳川幕府を警護する部隊)が明治政府と戦った「上野戦争」が行われた場所であるから。西郷は朝廷側の指揮官であり、朝廷軍を勝利に導いた彼の功績を称えるためだといわれる。
清水坂 (きよみずざか)
坂の上には東叡山清水観音堂があり、坂名はこの名称にちなむ。
清水観音堂(きよみずかんのんどう)
1882年に開園した日本で最初の動物園。
不忍池(しのばずのいけ)
寛永2年天海僧正が寛永寺を建立した際、京都の比叡山に対して忍ヶ岡を東叡山に、池を琵琶湖になぞらえて、竹生島を模した島を作って弁財天を祭り、清水寺を模して清水観音堂を建立。
弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名の由来は、かつて上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来する。ただし異説あり。周囲に笹が多く茂っていたことから、篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になった説、ここで男女が忍んで逢っていた説、上野台地が忍ヶ岡と呼ばれていたことに対して不忍池と命名された説。
弁天堂
忍坂 (しのぶざか)
不忍池の東岸から北に向けて上り、五條天神社の脇を北東へカーブしながら坂上に至る。坂上は、稲荷坂の坂上、花園稲荷神社の入り口に当たる。坂道の名称は、上野公園のある地が忍ヶ岡と呼ばれていたことに拠る。
五条天神社
医薬祖神を主神とするが、天満宮でもある。江戸三大天神の一つ。稲荷神社である花園稲荷神社が併設されているが、兼務社であって境内社ではない。正岡子規の句碑がある。
稲荷坂
「忍ケ丘の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」
正岡子規句碑
森鴎外旧居跡
水月ホテル鴎外荘は、敷地内に明治の文豪・森鴎外の旧居を保存している。
清水坂 (しみずざか)
坂近くに、弘法大使にちなむ清泉が湧いていたといわれ、魚はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近は清水谷と称していた。暗闇坂とも。
三段坂
普通の坂は上って下るが、さらに上るので、確かに三段坂。
その名は坂上にあった善光寺にちなむ。谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以降の新坂である。
玉林寺
曹洞宗寺院の望湖山玉林寺。第58代横綱千代の富士の銅像がある。なぜ玉林寺に建造されたといえば、千代の富士の菩提寺だったから。目線の先には富士山があり、そして、親族の眠っている墓がある。
三浦坂
三浦志摩守下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれた。中坂とも。
あかぢ坂
別名:あかじざか、明治坂。
真島坂(まじまざか)
この辺りが真島町と呼ばれたから?
三崎坂 (さんさきざか)(首振り坂)
旧称の谷中墓地とも呼ばれる都立霊園。徳川家15代目将軍慶喜や鳩山一郎・横山大観・渋沢栄一などが眠る。「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に、天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、徳川慶喜など徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。
徳川慶喜墓
側室の幸(中根幸子)と信(新村信子)の墓も、慶喜の墓の真後ろに仲良く並べられている。
御隠殿坂(ごいんでんざか)
御隠殿(ごいんでん)は東叡山寛永寺の住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へゆくため、この坂が造られた。御院殿坂とも。
寛永寺坂
坂上が寛永寺境内だったののちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。
天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光。
新坂(鶯坂、根岸坂)
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『秀樹杉松』91巻2544号 18/2/1 #blog<hideki-sansho>184
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