私の注目点の一つは、葉室麟の小説の書名。「風」と「花」のワードが多い。
→ 風渡る、風の王国、風花帖、風かおる、風の軍師黒田官兵衛、
今回読んだ『霖雨』(りんう)の書名も珍しい。霖雨は長く降り続く雨(長雨)。9章からなるが、その章名も面白い。
→ 銀の雨 /小夜時雨 /春驟雨 /恵みの雨 /降りしきる /雨 、上がる /底霧 /朝露 /天が泣く
『霖雨』の主人公は広瀬淡窓(ひろせたんそう)。若い方には馴染みが薄いかもしれないが、私は中学1年の時に書道展に広瀬淡窓の漢詩「休道他郷多苦辛 同袍有友自相親 柴扉暁出霜如雪 君汲川流我拾薪」を書いたので、今でも覚えています。広瀬淡窓が主人公の小説とは全然知らずに『霖雨』を読んだのですが、縁とはこういうものでしょうか。読書の喜びは、意外なところに潜んでいることを知りました。/ Atelier秀樹
広瀬淡窓(1782~1856)は、1805年天領の豊後国日田郡豆田町(現大分県日田市)に「成章舎」を開塾、1817年には同郡堀田村に全寮制の私塾「咸宜園(かんぎえん)」を開いた。「咸宜」は『詩経』から取られた言葉で「ことごとくよろし」の意味。淡窓は50年間講義を続け、その後養子や弟子によって咸宜園は引き継がれ、入門者は4千人を超え、蘭学者の高野長英や明治政府の兵部大夫となった長州の大村益次郎など、多くの人材を輩出した。
小説のストーリーは省略しますが、要は広瀬淡窓、8歳下の弟で廣瀬家の家業を継いだ九兵衛、淡窓の末弟・旭荘や、塾生を中心に物語は展開されます。淡窓の実家は屋号を博多屋と称し、日田代官所出入りの御用達商人として財をなしてきた。淡窓は文政13年(1830)に旭荘に咸宜園の運営を譲って隠退し、講義だけを行うようになった。塩谷大四郎郡代が咸宜園に執拗に介入して、支配下に置こうとした。こうした郡代による私塾への介入・干渉を、淡窓は<官府の難>と名称した。
なお、この小説には大塩中斎(平八郎)、「洗心洞」、「大塩中斎の乱」も登場する。
この小説の最後は、淡窓が勉学に励む塾生たちの日々を詠んだ詩でしめられる。広瀬淡窓を語る時に欠かせないのは、私が中学1年生の時に書道で書いた、前出の「休道他郷多苦辛…」の漢詩です。この詩の解説で本稿も締めます。
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休道他郷多苦辛 同袍有友自相親
柴扉暁出霜如雪 君汲川流我拾薪
=道(い)うことを休(や)めよ 他郷苦辛多しと / 同袍友有り 自から相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し / 君は川流を汲め 我は薪を拾わん
=他郷での勉学は苦労や辛いことが多いと弱音を吐くのは止めにしよう。一枚の綿入れを共有するほどの友と自然に親しくなるものだ。朝早く柴の戸を開けて外に出てみると、降りた霜がまるで雪のようだ。寒い朝だが炊事のため、君は小川の流れで水を汲んできたまえ。わたしは山の中で薪を拾ってこよう。 ………………………………………………………………………………………………………
◉この漢詩は、淡窓が勉学に励む塾生たちの日々を詠ったもので、人口に膾炙した。私が中学生の時は「道」をなぜ「いう」と読むのか不思議に思ったが、今漢和辞典引いたら7番目に「いう」が出てくる。そして例文として「言語道断」(ごんごどうだん)が示されている。また「道断」は、いうことばがない・もってのほか、とある。
◉咸宜園ができたのは今から200年前の1817ですから、全国から九州の日田に集まった若き秀才たちは、このように皆んなで助け合い、励ましあって全寮生活を送ったことでしょう。私も書道でこの漢詩を書きながら、先生から意味を教わって思いに浸ったことを、昨日のように覚えています。いい小説に巡り会いました。「坂めぐり」も楽しいが、やはり「本めぐり」(読書) はさらに楽しく奥が深いですね。
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『秀樹杉松』91巻2549号 18/2/9 #blog<hideki-sansho>189
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