秀樹杉松

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感動と衝撃の名作・若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(芥川賞受賞)を読む。おばあさんの「哲学」、老いと死を真正面から取り上げた、人生哲学小説!

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      第158回芥川賞受賞作河出書房新社      

若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』 

 158回芥川賞受賞の若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社2017刊)を読みました。葉室麟の小説に感動を覚えている私ですが、この若竹さんの作品には感動を超えた衝撃を覚えました。芥川賞受賞は当然でしょう。いや、こうした作家・作品にこそ、ノーベル文学賞を授賞して欲しいと思いました。

 私はこれまで、芥川賞受賞直後の作品を買って読んだ記憶はありません。その理由を一言でいえば、何となくついていけない内容だったからです。だが、今回は別でした。先日NHKラジオの朝番組で、芥川賞を受賞した若竹千佐子さんのインタビューを聴いて、”ついていけない”どころか、老いと死についての考え方に共感を覚えました。「おばあさんの哲学」だけでなく、「人生の哲学小説」といってもよろしいでしょう。 / Atelier秀樹

 

 この小説を読んだきっかけは、NHKラジオのインタビューですが、方言丸出しの書名『おらおらでひとりいぐも』にも惹かれました。子供のころ普段使っていた言葉が書名になっているではないですか。懐かしいような恥ずかしいような、方言(田舎弁)がまさか書名に登場するとは! 読む気になった三つ目の動機は、作者は60歳代前半の女性で、芥川賞受賞作家としては2番目の高齢だと知ったからです。岩手県出身にも親近感を覚えました。

 以下、この小説の一部を引用させていただきます。推理小説だと控えめの引用になりますが、そういう配慮はいらないので、私の魂が揺さぶられた箇所の文章を引用紹介します。見出しは引用者がつけました。

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 ◉受賞後の共同記者会見での、若竹千佐子さんの発言  

<おばあさんの「哲学」を書いてみたかった>

 → なんか「おばあさん魅力的だな」と思うんですよ。なぜ魅力的かと言うと、人生のいろんな経験を経て、いろいろ考えてきて、ある意味役割を終えて、妻の役割、親の役割を終えて、すごく自由な立場におばあさんはいるんじゃないか。そこで何を考えているのかっていうおばあさんの「哲学」を書いてみたいっていうのが、私の一環した小説のテーマです。

私小説ではありません>

 →  私、私小説を書いているつもりはなくて、やはり私の人生に教材はしているんだけども、でも桃子さんは、全く新たに造形した人物で。決して私小説ではない、というつもりです。(以上ネット情報から)

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 ◉小説本文からの引用 

<亭主が死んで>

 → 周造(引用者註:夫)はいる。必ず周造の住む世界はある。桃子さん(引用者註:主人公)はそう思った。歯を食いしばりながら、ただ今は別々なだけだと自分に言い聞かせた。そして目をみはった。

 亭主が死んで初めて、目に見えない世界があって欲しいという切実が生まれた。なんとかしてその世界に分け入りたいという欲望が生じた。それまでは現実の世界に充足していて、そんなことは考えもしなかった。(p.113~114)

<亭主の声>

 → 今、亭主の声が聞こえてもあの頃のようにきょろきょろ周りを見渡したりしない。どうやら声は内側から聞こえてくるのだと桃子さんは知っている。では通路は、あの世につながる通路は桃子さん自身の中にあるというのか、そこまで考えて、桃子さんはのどの奥でひゃっひゃと声にならない声を上げて笑う。何如なじょたっていい。もう迷わない。この流儀はおらがつぐる。(p.115~116) 

<子供も育て上げたし。亭主を見送ったし。>

 → 子供も育て上げたし、亭主も見送ったし。もう桃子さんは世間から必要とされる役割は全て終えた。綺麗さっぱり用済みの人間であるのだ。亭主の死と同時に桃子さんはこの世界とのかかわりも断たれた気がして、もう自分は何の生産性もない。いてもいなくてもいい存在。であるならこちらからだって生きる上での規範がすっぽり抜けたっていい。桃子さんの考える桃子さんのしきたりでいいおらはおらに従う。(p.116)

<おらは修造の死を喜んでいる>

 →  女はなおも話し続ける。

 周造が死んだ、死んでしまった。おらのもっとも辛く耐え難いとぎに、おらの心を鼓舞するものがある。おらがどん底のとき、自由に生きろと内側から励ました。あのとぎ、おらは見つけでしまったのす。喜んでいる、自分の心を。んだ。おらは周造の死を喜んでいる。そういう自分もいる。それが分がった。隠し続けてきた自分の底の心が、ぎりぎりのとぎに浮上したんだなす。不思議なもんだでば、心ってやつは。 (p.136~137) 

<おらは独りで生きで見たがったのす / 周造はおらを独り生がせるために死んだ>

 →  愛だの恋だのおらには借り物の言葉だ。そんな言葉で言いたくない。修造は惚れた男だった。惚れ抜いた男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我の力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった。なんと業の深いおらだったのか。それでもおらは自分を責めぬ。責めではなんね。周造とおらは繋がっている。今でも繋がっている周造はおらを独り生がせるために死んだ。はがらい(引用者註:図らい)なんだ。周造のはがらい、それがら、その向ごうに透かして見える大っきなもののはがらい。それが周造の死を受け入れるためにおらが見つけた、意味だのす。(p.137)

<死は恐れではなくて解放なんだす>

 → あのどきにおらは分がってしまったのす。死はあっちゃにあるのではなぐ、おらどのすぐそばに息をひそめで待っているのだずごどが。それでもまったぐといっていいほど恐れはねのす。何如なじょって。亭主のいるどごろだおん。何如って。待っているがらだおん。おらは今むしろ死に魅せられでいるのだす。どんな痛みも苦しみもそこでいったん回収される。死は恐れではなくて解放なんだなすこれほどの安心ほかにあったべか。安心しておらは前を向ぐ。おらの今は、こわいものなし。(p.140)  

老いどいうのも一つの文化でながんべが>

 → 声を潜めて言うのだけれど、ひょっとしたら、おら死なないがもしらねというものなのだ。老いどいうのも一つの文化でながんべが。年をとったらこうなるべき、という暗黙の了解が人を老いぼれさせるのであって、そんな外からの締め付けを気にしてどうする、そんなのを意に介さなければ、案外、おら行くとごろまで行けるかがもしれね、と考えたのだ。とはいえそこまでの長寿を望んでいるかというと首を傾げる。といって積極的に死にたい理由もない。そこまで厚かましく拘泥しなくても、見られるものはしっかり見ておきたいぐらいには思っている。(p.146) 

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              『秀樹杉松』91巻2551号 18/2/13   #blog<hideki-sansho>191

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