昨年11月21日に第1回坂めぐりをしてから3ヶ月経過し、今日は区切りのよい第30回でした。そこで今日は「30回記念坂めぐり」と銘打ち、場所はどこにするか思案の末、40年以上も前に住んでいた、東京北区の赤羽台・桐ヶ丘地域が浮上した。この二つの地域は隣接し、地 (町)名に「台」と「丘」がついた、文字通り高台なので坂が多いはず。ネットのtokyosaka.sakura.ne.jp、sakagakkai.orgや地図で調べたら、13の坂があることがわかったので、「これに勝る場所はない!」とすぐ決めました。
今日の13坂を含め、これまでに349坂を巡りました。坂めぐりに付随して、坂名に由来のある寺社やな近辺の名勝古蹟も歩いたので、それを含めると、随分と多くの場所を巡ったことになります。
懐かしい場所である赤羽台・桐ヶ丘でしたが、大きく様相を異にしており、40年前のことでもあり、自分が住んでいた場所も建て替えられていた。赤羽台中学校は桐ヶ丘の北中学校と統合して、2006年4月に桐ヶ丘中学校になっていました。赤羽台中の跡地を東洋大学が購入し、昨年2017年4月に東洋大学赤羽台キャンパス(INIAD)が誕生していた。
もう一つ大きな変貌は、桐ヶ丘に隣接する赤羽自然観察公園の誕生です。陸上自衛隊十条駐屯と赤羽分屯地跡地の一部が公園として整備され、1999年に開園したことです。今日園内を歩きましたが、雑木林や湧水、田んぼ、茅葺の民家など、自然観察を満喫できる公園でした。私が住んでいた頃は、立ち入り禁止の区域でした。/ Atelier秀樹
<30回記念 坂めぐりのコースと写真>
大坂
この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また、政右衛門坂(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます。
赤羽台団地
1962年(昭和37年)、東京23区内としては初めての大規模団地として造成された。今は「ヌーヴェル赤羽台」もできて、様変わりしていました。
一番下のこの大きい写真は、公団住宅に隣接している「公務員住宅」です。項目立ては特にせず、便宜「赤羽台団地」に入れました。
うつり坂
この坂は、旧板橋街道の坂道の一つです。大正8年(1919)に旧陸軍被服本廠が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来なくなってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道となりました。
東洋大学(赤羽台キャンパス)
旧赤羽台中学校の空き地跡に、2017年4月に開校。愛称はINIAD = Faculty of Information Networking for Innovation and Toyo University.
八幡坂(やわたざか)(赤羽台坂)
大正八年、旧陸軍被服本廠が赤羽台に移転してきて、道の一部が敷地内に入ったので、一般の通行のため、同廠北側に設けられたのがこの坂道です。
八幡坂の名は、この北にある八幡谷(やわただに)に因んだ地元の呼称で、それが定着したものです。「赤羽台坂下」のバス停があるので、赤羽台坂といってもいいでしょう。
赤羽八幡神社
昭和初期ごろまでは「赤羽山八幡宮」と呼ばれた。1971年に東北・上越新幹線の開通により、神社境内下にトンネルが掘られている。
師団坂
この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治20年に工兵大隊が丸の内から赤羽台に移ってきたので、坂が作られた。この坂は「工兵坂」とも呼ばれる。
星美学園
「稲荷の坂」に隣接。カトリックの女子修道会であるサレジアン・ シスターズを母体とするミッションスクール。 校訓は「純潔勤勉」。
稲荷の坂
昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂とよばれるようになりました。
坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指している。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。
宮の前の坂
前項参照。
殿山の坂
殿山の名は、台地上の旧字名に由来する。昔、台地には人家がなく一望の畑地で、人がやっと通れる農地であった。この石段は急で長く、登り切るのに大変でした。
袋町公園
念仏坂のすぐ近く。袋町は旧町名。
念仏坂
細い淋しい坂であったが、 今日では整備されている。登りきったところに、真頂院寺の墓地がある。坂の名はその故か。
ふか坂
坂名は、うっそうとした樹木におおわれて、谷深い中を蛇行している坂から。坂を下って北へ行くと荒川にでる。そこは、かつて袋村河岸があり、地元では大根河岸とも呼んでいた。この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれていた。
桐ヶ丘中学校
2006年(平成18年)に北中学校と赤羽台中学校が統合した学校。
桐ヶ丘中央公園
この公園に息子をよく連れて行ったものです。
都営桐ヶ丘アパート
東京の団地と言えば高島平ばかりが有名だが、こちら桐ヶ丘団地は全部で5000世帯が生活する都内最大の団地。
富士見坂
このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして、折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る。此景望又いうべき様なし」と記されている。
富士見坂のそばには、善徳寺と大恩寺がある。
善徳寺
善徳寺は関東大震災のあと、浅草よりこの地に移転。 この寺には「お竹如来」の墓がある。この墓は、江戸大伝馬町の佐久間家のお屋敷にいた「お竹さん」という女中さんを供養したものだそうです。
大恩寺
関東大震災による被害のため、大正14年(1925)5 月、現在の場所に移った。 境内は石造りを基調として屋内に墓所を設けるなど、 整然とした造りの都市型寺院。山門の仁王像がすごい形相なので、写真を撮ってきました。
かなくさ坂
名前の由来については定かではないが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤錆色に染まったことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではないか。
陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地跡地の一部を公園として整備し、1999年4月1日に開園。公園内には湧水があり、これらを生かし、かつてこの近辺で見られた本来の自然を復元し、公園の名前のとおり自然を身近に観察できかつ触れられるように整備されている。私ら住んでいた頃はもちろんありませんでした。
赤羽台西小学校
2005年(平成17年)3月31日 - 赤羽台東小学校を統合。
弁天池の坂
すぐ近くに弁財天がある。
亀ガ池弁財天(弁天池)
昔、赤羽駅の西口一帯に大きな池があり、亀ヶ池と呼ばれていました。昼なお薄暗く、一角のほこらには無数の亀がすんでいました。特に大亀は甲の周囲8.9尺もあり、 小さな子供はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れてけっして出てこなかったといわれています。 また、伝説では、池には一対の大蛇が住んでいたとも言われています。 現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれている。
子どもが乗っかって遊んだ大亀
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『秀樹杉松』91巻2554号 18/2/20 #blog<hideki-sansho>194
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