秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

徘徊と散歩

 朝日新聞朝刊の1面に「徘徊と呼ばないで」(認知症とともに)が出ている。私はたった今、「スマホのある生活」…のタイトルでブログ投稿したばかりです。花見に出かけようとして、玄関先の新聞の活字に目がついたので、急いで読みました。

 徘徊は「目的もなく、うろうろ歩き回ること」「何処と無く歩き回ること」だが、認知症の本人から「散歩という目的があって出かけた」ので「徘徊ではない」、「徘徊という呼び方をやめてほしい」という声があがり、自治体などで「徘徊」を使わない動きが広がっている…、という記事です。 / Atelier秀樹

 

 そうなのか、と私は思いました。同時に、私自身は「徘徊」というワードにあまり違和感を持っていなかったのも事実です。語彙力の問題でしょうが、むしろ何となく”浪漫の響き”さえ感じていたのです。その意味では、この呼び方に異議を唱えた人の語彙力に敬意を表したい。 

 私は毎日外出しています。目的は、1)外に出ること、2)歩くこと、3)喫茶店に入って、1~3時間好きな小説を読むこと、などです。喫茶店に寄るのは、歩くだけではつまらないからですが、コーヒーを飲むのが目的というわけでもない。では何故でしょうか。知らない人が集まっている場所で本を読むためです。もちろん読書好きの私は、自室(書斎?)でも、読書・クラシック音楽鑑賞・パソコン執筆が日常ですので、自室での静かな読書を愛しています。

 それでも外出先の喫茶店での読書には、自宅とは違った趣があるのです。他人の存在が気になったり、会話の騒音は当然あります。しかし不思議なもので、あまりの高音は別にして、他人の会話が”一種の音楽”だと思いながら、私は読書を楽しんでいます。時には、会話内容の一端が聞こえてきます。そこから「世相の一端」も知り、自室にこもっていては得られない見聞もあります。

  かく申す私も、外出先で二度ばかり道に迷ったり、自分の居場所がわからなくなったりしました。おそらくそれが原因で、それこそしばらく周囲を「徘徊」したのでしょうが、幸い何とか自力で「迷路」から脱出できました。今回子供が父母にスマホを与えた目的の一つ(もしかして最大の)は、おそらく「徘徊対策」でしょう。両親の現在の居場所がわかるようになっているそうですから。

 これからも毎日外へ出かけます。今日はこれから六義園のしだれ桜を観に出かけます。自分の居場所を知られるだけでなく、自分がいま現在どこに居るかがわかるのだから、こんな便利なものはないでしょう。尤も目下研修中で、まだその機能の使い方は教わってませんが…。

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           『秀樹杉松』92巻2575号  2018-3-25,  blog<hideki-sabsho>2575       

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