今日で大型連休は終わる。この間私は、相変わらずのシルバー就業(パート)と坂めぐりに終始した。世間では「ゴールデンウィーク」というが、我らについては「シルバーウィーク」です。今日は中野区の弥生町・南台の坂へ行ってきました。
今日の注目点の一つは、本文にも書きましたが、二つの「東坂」が存在したということです。一つは、坂学会の坂リストにある、多田神社の東の、南台三丁目の東坂です。もう一つは、日本坂道学会の坂リストにある、地下鉄中野車庫の東の、弥生町五丁目の東坂です。
坂学会の説明では、「多田神社の東側にある坂だから、東坂」(「東京の坂事情」より)。そして、「東坂の場所として『弥生町5丁目の地下鉄車庫の東側』と書かれることがあるが,地下鉄車庫の東側は 明治の地図には水田になっていて,農道の痕跡すらない。」となっている。片や、地下鉄車庫の東側説?の日本坂道学会リストでは、坂の解説欄は空白となっている。
両学会の坂リストに全面的に依拠してきた私としては、“両者を立てる”形をとり、二つの坂を歩いて写真撮影しました。困ったなあ、と思って地図をよく見たら、何と!二つの坂は、方南通りを挟んで、南北につながっているではないか。つまり、北側が弥生町五丁目の東坂で、南側が南台三丁目の東坂、ということになります。
この両坂は、繋がった一本の道なのです。両方とも「東坂」でいいではないですか。このブログが両学会関係者の目に止まらないでしょうが、坂めぐりはどう転んでも楽しいことばかりです。 / Atelier秀樹
駒ヶ坂
中野区弥生町6丁目。善福寺川に架かる駒ヶ坂橋から南へ。標識なし。昔の地名“雑色村駒ヶ坂”に因るのか。(「今昔東京の坂」より)
コーシャハイム中野弥生町(JKK=都住宅供給公団)
駒ケ坂の東側に最近建てられた高層住宅。
駒ヶ橋
駒ヶ坂を北に降ったところで、善福寺川を渡る橋で、中野区弥生町六丁目と杉並区和田二丁目を結ぶ。
和田公園と和田広橋
善福寺川を渡って杉並区に入ったすぐ左手(西側)にある。
井の頭池を水源とする神田川と善福寺池を水源とする善福寺がここで合流。善福寺川は11.3mの長さ。合流地点での量川の水量はほぼ同量だが、わずかに善福寺川が多い?
善福寺川は水源(善福寺池)から11.3km地点で神田川に合流する。
神田川と善福寺川の合流地点。手前が善福寺川、向こうが神田川。
富士見橋と中野富士見町駅
中野富士見町駅すぐ近くに富士見橋がる。
本五ふれあい公園
本町五丁目。
十貫坂(じっかんざか)
杉並区和田1丁目から,中野区本町5丁目と6丁目の間を通り十貫坂上交差点まで。青梅街道の地下鉄新中野駅を南に下ると“十貫坂上”交差点の信号がある。ここから南東に下る。坂上に地元が設置した標識が,2013年に設置された。
これより 十貫坂 →
平成二十五年一月 鍋横地域の文化座を守る会
付近から十貫文の入った壷がでてきたという話と中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。昔,中野の長者が十貫文の銭を埋めたなど,いくつかの説がある。(「今昔東京の坂」より)
付近から十貫文の入った壷がでてきたという説。中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためという説もある。(標識より)
鍋横区民活動センターと鍋横保育園
都立富士高校&付属中学校
東坂(弥生町5丁目、地下鉄車庫の東)
(tokyosaka.sakura.ne.jpリストに載ってはいるが、写真のみで坂名解説はなく、「標識なし」の記載のみ。名前の方はともかく、今は立派なな坂道であるので、「弥生坂」とでも命名しては?
地下鉄中野車庫
中野区立南台図書館
南台三丁目。
南台小学校(旧多田小学校)
南台三丁目。多田小学校と新山小学校が統合して設立された、新しい学校です。平成29年4月に開校。
中野特別支援学校
東坂(南台3丁目。多田神社の東)
中野区南台3丁目。多田小学校(学校統合により、今は南台小学校)の南の宝福寺前付近から多田神社前付近まで。標識なし。多田神社の東側にある坂だから。(「東京の坂事情」より)。東坂の場所として「弥生町5丁目の地下鉄車庫の東側」と書かれることがあるが,地下鉄車庫の東側は 明治の地図には水田になっていて,農道の痕跡すらない。
<編集註>従って、東坂(弥生町5)は、sakagakkai.orgリストには登載されていない。
宝福寺
寳福寺は真言宗のお寺で、ご本尊は聖徳太子です。また、昭和新選江戸三十三観音札所の第17番札所にもなっています。 平成26年2月、中野区認定観光資源に認定されました。(jalan.net)
雑色村と多田神社
現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は、約九百年前、寛治六年(一〇九二)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(一五九一)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社~雑色地域の間に通じていたともいわれています。
「雑色」とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会掲示より)
<境内石碑による多田神社の由緒>
多田満仲公は第五十六代清和天皇の御曾孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農村の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその成功は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は(甚少)少ではない。
その第二子は歴史上著名な頼光公であり第四子頼信公は平忠常を討ち、関東を平定、続いて頼義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治六年(一〇九二年)祈願達成の報賽として、大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬されて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。(tesshow.jp)
<編集註>坂に関する説明は、「坂学会/東京23区の坂」 に依拠しています。
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『秀樹杉松』93巻2599号 2018-5-6, #blog<hideki-sansho>239
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