秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

<坂めぐり>完結記念特集(第50回=2018-5-16/17)【後編】杉並区上井草 太田道灌の史跡等 ~道灌坂・道灌公園・道灌橋公園・道灌橋之跡、井草川(緑道)・妙正寺川・松下橋、井草森公園・切通公園・四宮森公園・四宮公園・善福寺公園・銀杏稲荷公園、荻窪八幡神社・井草八幡宮・銀杏稲荷神社・江戸向地蔵、四宮小・井草中・三谷小・桃井四小・杉並工高。

 前号の坂めぐり完結【前編】に続いて、最終号【後編】をお届けいたします。坂そのものではなく、近辺の遺跡・旧跡・八幡神社・公園・学校などを紹介します。興味満点の内容です。ぜひお読みください。

 なお、本号をもって【秀樹杉松】<坂めぐり>は終了となります。ただし、『秀樹杉松』は今後も続きます

 

井草森公園(いぐさもりこうえん)

 東京都杉並区井草にある杉並区立公園である。 面積は 39,503m2。杉並区立の公園では一番広い公園である。 当地は、旧通商産業省機械技術研究所があったところで、当研究所は1980年(昭和55年)につくば市に移転した。(Wikipedia)。

 上井草2丁目、「四宮坂」と「こども坂」の間。

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井草川緑道  

 井草川は杉並区上井草4丁目の切通し公園を谷頭とし、妙正寺公園に至る約3.5kmの妙正寺川の支流である。現在では区間が暗渠となっており、井草川緑道が川の上に続いている。緑道の途中の四宮森公園脇にある井草川の説明板によれば、周辺の宅地化により、昭和56年(1981)には全ての流路が暗渠となった。

 井草川流域には旧石器時代縄文時代など、26箇所もの遺跡があり、古代から人々の生活の場となっていたという。井草川の水源は切通し公園であるが、江戸時代には千川上水の分水である六ヶ村分水から水を引き入れ、井草川に落としていたようである。六ヶ村分水は現在の青梅街道沿いに開削され、現在の井草八幡前交差点付近の谷頭口(切り通し口)から取水され、井草川流域の田畑を潤していたという。(riverpromenade.blog

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井草川

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 井草川(いぐさがわ)とは、東京都を流れる普通河川であり、荒川水系妙正寺川の支流である。区間が東京都杉並区内であり、暗渠化されている。一部の河道上が遊歩道として整備されている

 流路

 水源は杉並区上井草四丁目にある杉並区立切通し公園とされる。ここから東へ流れ、東京都立杉並工業高等学校敷地内、杉並区立三谷小学校の北側を経た後、徐々に北上を始める。西武新宿線上井草駅井荻駅との間で一旦同線の北側へ抜けた後、東へ流れ、再度同線の南側へ抜ける。すなわち西武新宿線はこの区間で二度この川を渡ることになり、開渠時の橋梁も現存しているが、橋梁名は「妙正寺川橋梁」となっている。井荻駅の南側を経た後、今川方面からの支流が合流し、今度は徐々に南下を始める。杉並区立桃井第五小学校の東側、杉並区立中瀬中学校の西側を経て、清水二丁目(註:三丁目が正しい)にある杉並区立妙正寺公園内にて妙正寺川に合流する。(Wikipedia

 

四宮森公園(しのみやもりこうえん)

 上井草2丁目41-25。「四宮坂」と「こども坂」の間。

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四宮小学校

 「四宮坂」を南下した通りの東側。

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四宮公園

 上井草2丁目27-12。「こども坂」「北向き坂」の中間(南側)。地図に名前無し。

 【註】同じ町内に「四宮森公園」と「四宮公園」があってややこしいですね。

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井草中学校 

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かみいぐ雑木みちプロジェクト

上井草に緑やわらかな雑木みちを作るプロジェクト。かつての魅力ある武蔵野の風景を上井草に再現して行きます。(kami-igusa.jp

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道灌橋公園 

 上井草3丁目。開園平成3年。(city.suginami.tokyo.jp) 

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 (註)写真2枚撮ってきましたが、なぜか、もう1枚はアップできませんでした。

 

三谷小学校(さんやしょうがっこう)

 上井草3丁目、道灌橋道灌橋之跡石碑のすぐ東。

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道灌公園

 杉並区今川4丁目にある「道灌公園」は住宅街にある小さな公園です。

 道灌公園の名前は、江戸城を最初に築いたことで知られる室町時代の武将、太田道灌の名前です。太田道灌が公園近隣で石神井城合戦にあたり、陣を敷いたことからその名前が付きました。(iko-yo.net) 

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道灌橋之跡(石柱)

 自宅菜園で仕事中の男性に道灌橋公園の場所を尋ねたら、丁寧に教えてくださり、ついでに「道灌橋之跡」と書かれた石柱があることも教えてくれました。おかげさまで、井草川にかかっていた道灌橋の場所がわかりました。この一帯に、道灌橋之跡の石碑、道灌公園道灌橋公園が集結し、太田道灌の由来が実感できました。

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三谷公園(さんやこうえん)

 「三谷公園(さんやこうえん)」は、「都立杉並工業高校」の向かい側にある、2,800平方メートルほどの小さな区立公園。かつて杉並区内を流れていた川を暗渠化して遊歩道に整備した「井草川緑道」の起点に当たる。(itot.jp

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杉並工業高校

 上井草4丁目、旧井草川の水源に近い。「たぬき坂」と「縄文坂」の間。 

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井草遺跡(いぐさいせき)

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 この遺跡は、杉並区上井草四丁目13番を中心に広がる縄文時代草創期(約9,000年前)の遺跡です。この草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面などに、小規模な集落を構成する例が多く見られます。井草遺跡もその一つで、井草川(現在は埋められ湧水していない)の西側斜面に位置しています。

 昭和15年に行われた発掘調査の際に出土した土器は、「井草式」といわれ、日本最古の縄文土器の一つとして知られています。土器の文様は、コイル状に縄をまいた原体を土器にころがして作った、いわゆる「撚糸文土器」と呼ばれるもので、形は底がやや丸みをおびた砲弾形です。普通は直径30センチメートル、高さ40センチメートル前後のものが多いようです。

 この「井草式土器」は、関東地方で約50ある土器形式名の中で、草創期の形式名になっている本区唯一の標式土器でもあります。

         昭和54年2月1日  杉並区教育委員会             (city.suginami.tokyo.jp

 

 

切通公園(きりどおしこうえん)

 井草4丁目のこの杉並区立切通公園は、井草川(今は暗渠化)の水源とされている。公園内と東隣の杉並工高敷地内は完全な暗渠なので、「たぬき坂」を挟んで東側の「三谷公園」が井草川緑道(遊歩道)の始点となっている。

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井草八幡宮

井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)は、東京都杉並区神社である。

青梅街道沿い、早稲田通り沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていた。源頼朝が起請(文治5年)して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40m)があったが、1973年(昭和48年)に枯れてしまった。現在その樹根の一部が当社回廊に飾られている。 アニメ 〈物語〉シリーズにて作中の北白蛇神社のモデルにもなった。(Wikipedia

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桃井四小

 善福寺3丁目、井草八幡宮と早稲田通りを挟んで北側。

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江戸向き地蔵

 善福寺3丁目。

井草八幡宮を出るとその先は練馬区。これまでは街道沿いの並木が銀杏であったが練馬区に入ると「ケヤキ並木」に変わっている。

 数分歩くと三叉路際に地蔵尊がある。この地蔵尊享保14年(1729)の造立で通称「江戸向き地蔵」と呼ばれている。石塔は文政9年(1826)に建立された「三山百番供養塔」。(「青梅街道荻窪から東伏見」より)(sannpo.iobb.net

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善福寺公園

 善福寺公園(ぜんぷくじこうえん)は東京都杉並区にある東京都建設局所轄の都立公園である。善福寺池善福寺川水源にもなっている他、東京都水道局杉並浄水所の水源になっている。公園としては1961年6月16日に開園。井の頭池井の頭恩賜公園)・三宝寺池石神井公園)と並び武蔵野三大湧水池として知られている。(Wikipedia

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【下井草】に移ります。

 

妙正寺川

 妙正寺川(みょうしょうじがわ)は、東京都を流れる一級河川荒川水系の支流である。流路延長9.7km。流域面積21.4km2。東京都杉並区妙正寺公園妙正寺(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流する。(Wikipedia

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松下橋

 妙正寺川にかかる旧早稲田通の橋。橋を渡って100mぐらい北上すると銀杏稲荷神社。

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銀杏稲荷神社(いちょういなりじんじゃ)

 創建は1616年と400年前。下井草村の鎮守で、由緒あるお稲荷さん。神社の裏山に大きな銀杏の木があったことから「銀杏稲荷神社」。

 銀杏稲荷神社は、三浦より移り住んだ井口家の井口外記が元和2年(1616)創建したと伝えられます。

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【銀杏稲荷神社の由緒】

 当社は旧下井草村の鎮守で、社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。創建は棟札に「抑当社勧請者元和二(1616)歳比、先祖外記造営(下略)」とあり、井口家の先祖である井口外記といわれています。井口家は相州(現神奈川県)の三浦氏の末裔といわれ、天正年間(1573-1592)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。井草の地名のおこりも井口姓を名乗った長佐衛門なるものが「草分け長佐衛門」と呼ばれたことからおこったという説もあります。

 村の鎮守として祀られた当社は、かつては境内も二百坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺別当として管理していましたが、現在は井口家を中心とする三十数軒の講中の稲荷として地元の人々に信仰されています。現在も残されている、文政十二年(1829)二月に下井草村氏子中が奉納した「正一位銀杏稲荷大明神」の大幟は当時からも稲荷信仰が盛んだったことをうかがわせる貴重な資料です。

 毎年二月初午には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を戴き、御神酒及び種々の御供物をして、赤飯を子供達に与え、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。祭礼は二月初午です。(杉並区教育委員会掲示

  

銀杏稲荷公園

 旧早稲田通り沿いにある「銀杏稲荷公園」。面積約1,500平方メートルの園内には、子ども向けの大きなフィールドアスレチック遊具が設置されている。森の中で探検ごっこをしているような気分になれる。公園自体が小高い丘の上にあり、アスレチックの見晴らし台からは、旧早稲田通りと、通り沿いの街を見渡すことができる。(itot.jp

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太田道灌の史跡】

 今回の坂めぐりを通じて、道灌坂・道灌公園・道灌橋公園・道灌橋之跡を辿った。どうやらこの地域は太田道灌と大きな接点があることがわかりました。当然、道灌の足跡を探ってみたくなりました。道灌といえば、江戸城の築城・山吹の里などで有名ですが、杉並区にもゆかりがあったんですね!

 

 Wikipedia太田道灌」の冒頭に、「長尾景春の乱で活躍した」とあり、「長尾景春の乱」の項には「道灌は兵を動かして長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大磯町)を速攻で攻略。江戸城の至近に拠る豊島氏は早期に滅ぼさねばならず、文明9年(1477年)4月、道灌は兵を発して豊島泰経泰明兄弟を江古田・沼袋原の戦いで撃破し、そのまま石神井城を落して豊島氏は没落した。」と出てきます。

 中野区の江古田、沼袋は杉並区の井草に近く、いま地図で確認したら4km(1里)ちょっとしか離れていない。

 そこで今度は、Wikipediaの「江古田・沼袋原の戦い」を調べたら、

 →「江古田・沼袋原の戦い(えごた・ぬまぶくろはらのたたかい)は室町時代後期の文明9年4月13日[旧暦=(1477年5月25日)]に武蔵国江古田原・沼袋(現在の東京都中野区江古田・沼袋付近)で太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦。長尾景春の乱での戦いのひとつ。なお、当時唯一の記録である『太田道灌状』には戦場となった場所が「江古田原」と記されており、のちにこれを下敷きに書かれた『鎌倉大草紙』で「江古田原沼袋」となっていることから、研究者の間では一般に「江古田原合戦」と呼ばれている。

 

 これで、太田道灌が今の上井草の「陣幕に本陣を置き、「道灌坂」を下って「道灌橋」を渡り、「道灌山」に軍勢を配した、との伝承は裏付けられる。

 さらに調査を進めたら、「善福寺城」の城跡伝説にぶち当たりました。それによると、善福寺城の跡とされる場所は4つあるそうで、荻窪八幡神社、道灌橋公園付近、善福寺公園付近が含まれる。ネットの「東京発 日本の城巡り紀行 Maro参上」です。敬意を表して、引用します。

善福寺城(東京都)~善福寺公園付近に存在する3つの城塞伝説

 善福寺(ぜんぷくじ)城の説明は、日本城郭全集が詳しく説明されています。

 善福寺城の跡とされる場所は4つあるそうで、一般的には荻窪八幡神社だとされるそうですが、城郭全集ではそれは誤りだとしています。

 そして以外の3つは、全てそれぞれ存在したとされ、1つはその500メートルほど南の丘陵地だとしています。ここにはかつて空堀もあり、城があったことは確実とまで記されています。源頼義蝦夷征伐の帰りに、八幡社を築き、その南方のこの地に、城を構えたそうです。また、この城の歴史は明確でないそうで、後世に北条氏綱が、扇谷上杉氏の拠点だった河越城深大寺城を分断するために、築城されたとも伝わるそうです。

 そして2つ目はその北側にある、杉並区立三谷小学校近くにある道灌橋公園付近。文明9(1477)年に起きた江古田・沼袋原の戦いで勝利を収めた太田道灌がさらに石神井城を攻める前日に陣を置いたと伝わるそうです。

 最後の3つ目は善福寺公園の付近。現在池が2つ(上下)ありますが、ボートなどもある池(上)でない方(下)の東側の台地だそうです。ここは先の江古田・沼袋原の戦い太田道灌に敗れた豊島氏の傘下にあった豪族の城とされています(maro32.com

  

陣幕と道灌坂

  陣幕は、豊島泰経の籠もる石神井城攻略に当たって、太田道灌が陣を敷いた場所と伝えられている。現在の今川三丁目交差点付近とされており、この一帯は北200m程の所にある井草川(現在は暗渠となり、井草川緑道となっている)より10m程の高台となっている。あくまで伝承なのでその信憑性は不明であるが、陣幕跡付近には道灌公園が置かれ、付近には道灌橋道灌坂など道灌由来の地名が多数残る。伝承では太田勢は「陣幕」に本陣を置き、「道灌坂」を下って「道灌橋」を渡り、「道灌山」に軍勢を配したとのことである。しかし残念ながら、都市化のため遺構は全くない。(atenzasports.23z.so-net.ne.jp

 

西武新宿線下井草駅(ゴール)

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<二日目>

 1日で終了できなかったので、翌日(5月17日)荻窪八幡神社へ行ってきました

 

荻窪八幡神社(おぎくぼはちまんじんじゃ)

 この神社は旧荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。

 また文明9年(1477)4月、江戸城太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。

  昭和54年2月1日  杉並区教育委員会     (city.suginami.tokyo.jp) 

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      ↑ 道灌槇(文明9年=1477年に太田道灌が植えた一株)

 

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                                  ↑ 延宝7年(1679年)銘 石像狛犬

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<坂めぐり>終了宣言

 以上をもって、50回 / 500坂に及んだ『秀樹杉松』<坂めぐり>を終了しました。最終回は【前編】と【後編】の2号に及びました。煩雑で読みにくいものになったかと思いますが、終号までお読みいただき有難うございました。

 坂めぐりそのものは50回でしたが、記事は60号にわたっています。長い間のご愛読に感謝を申し上げます。なお、今回の一連の<坂めぐり>のまとめと感想は、既に5月19日に2号に分けて投稿済みですので、これもご覧頂ければ幸いです。

 秀樹杉松』そのものは今後も続きますので、何かの折にアクセスしていただければ、たいへん嬉しく思います

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                 『秀樹杉松』94巻2615号  2018-6-1,  #blog<hideki-sansho>255

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