直木賞・吉川英治文学賞・菊池寛賞などを受賞した、時代小説作家の津本陽さん(1929~2018)が先月末に亡くなられたのを、新聞の報道で知った。哀悼の気持ちを胸に近くの図書館へ行った。所定の書架に作品が見当たらないので館員に訊いたら、津本陽コーナーが設けられていた。『下天は夢か』を探したが、既にどなたかが借り出したらしい。結局、『新釈 水滸伝』(上下)と『松風の人 吉田松陰とその門下』を借りてきました。 例の<坂めぐり>などに忙しく、合間に『新釈水滸伝』に目を通し、やっと読み終えました。
本号の主題は津本陽『新釈 水滸伝』ですが、その前提というか背景は、見出しのように『水滸伝』と「梁山泊」です。私の読書感想は二の次で、二つのテーマに焦点を当てます。復習のおつもりでお読みいただければ幸いです。 / Atelier秀樹
<身の毛もよだつ>
最初に私の素朴な読書感想を書きます。詳しい内容も知らずに、『水滸伝』と「梁山泊」という有名な名前に惹かれて、なんとか読了しました。大昔の、しかも中国の、講談がらみ。津本陽さんの『新釈 水滸伝』は読み進むと、私にとっては驚くことばかりでした。
→ 大男や力自慢などの 英雄「好漢」たちが次々に出会う。その都度互いの姓名・綽名を名乗りあい、互いに相手に上座を譲り合う。複数の好漢が揃えば、みんなで席順を決める。こうして好漢の輪が広がる。
→ 豪傑たちは、よく酒を飲み、そして肉を喰らう。何かにつけて、やりたい放題。もっとも、そういう人物を対象とした小説であるから当然とも言えるが、日本の時代小説を読んでいる私から見ても、桁違いの悪さと強さにはたまげる。
→ 大きなショックだったのは、何かといえば、すぐに喧嘩を始め、相手に暴力を振るい、簡単に殺してしまう。それだけではない。死体の皮を剥いだり、殺した相手の肉を喰らい、あまつさえ内臓を取り出して食べる!
こうしたことは単なる話なのか、大昔は実際に人を殺して食べることが行われていたのでなないか。日本でも、戦場で仲間の兵士の肉を食べたとか、飢饉の際に人肉を口にしたという話は、本当のことのようなので、水滸伝に書かれている人殺し・人食いは、実際にあったと思われる。そのことを思うと“身の毛もよだつ”が、意外と描写は”自然体”で?、スラスラと読み進んだから不思議ではある。いずれにせよ、日本の風土とは異なる違和感も覚えた。
《水滸伝》
それでは、本題に入ります。
Wikipediaによれば、『水滸伝』は以下のようにまとめられています。(抜粋)
『水滸伝』(すいこでん、水滸傳)は、明代の中国で書かれた伝奇歴史小説の大作、「四大奇書」の一つ。施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの講談(北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語)を集大成して創作されたとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味である(「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す)。
<ストーリーの概略>
時代は北宋末期、汚職官吏や不正がはびこる世の中。様々な事情で世間からはじき出された好漢(英雄)百八人が、大小の戦いを経て梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結。彼らはやがて、悪徳官吏を打倒し、国を救うことを目指すようになる。
<水滸伝の来歴>
水滸伝の物語は実話ではない。しかし14世紀の元代に編纂された歴史書『宋史』には、徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。講談師たちは12世紀中頃に始まる南宋の頃には早くも宋江反乱の史実をもとに物語を膨らませていったと推定され、13世紀頃に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には、宋江以下三十六人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されている。
15世紀頃にまとめられた水滸伝では、三十六人の豪傑は3倍の百八人に増やされた。また、荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め、梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし、反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とする集団と設定され、儒教道徳を兼ね備え知識人の読書にも耐えうる文学作品となった。
<日本における『水滸伝』の受容>
日本へは江戸時代に輸入され、1728年(享保13年)には岡島冠山により一部和訳され普及し19世紀初めには翻訳、翻案が数多く作られ、浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が読本の挿絵や錦絵に描いた。
1773年(安永2年)には建部綾足『本朝水滸伝』が成立した。これは本編を換骨奪胎し、さらに日本の歴史をも改変した、現在の伝奇小説の先駆けともなる作品である。ほかに『水滸伝』ものとしては『新編水滸画伝』を著したこともある戯作家曲亭馬琴は特に水滸伝を日本を舞台とする物語に取り入れ、代表作となる『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』を書いた。また、パロディである『傾城水滸伝』も書いている。
江戸時代後期の侠客である国定忠治の武勇伝はのちに『水滸伝』の影響を受けて脚色された。浪曲や講談で知られる『天保水滸伝』は、侠客笹川繁蔵と飯岡助五郎の物語に水滸伝の名を冠したものである。
<登場人物>
水滸伝には数々の豪傑たちが登場する。それぞれ天傷星、天狐星など、百八の魔星の生まれ変わりである。百八とは仏教で言う煩悩の数でもあり、除夜の鐘で突かれる数でもある。
【梁山泊】
天魁星 宋江(そうこう) 梁山泊の三代目首領。綽名は呼保義(こほうぎ)。
呉用(ごよう)・公孫勝(こうそんしょう)・林冲(りんちゅう)・ 花栄(かえい)・ 柴進(さいしん)・ 魯智深(ろちしん)・ 武松(ぶしょう)・ 楊志(ようし)・ 李逵(りき)・ 史進(ししん)・ 李俊(りしゅん)・ 燕青(えんせい)・ 晁蓋(ちょうがい) 梁山泊の二代目首領(新生梁山泊としては初代)・王倫(おうりん) 梁山泊の初代首領。落第書生で偏狭な人物。林冲らに悪人として粛清されており、百八星には含まれていない。
《梁山泊》(りょうざんぱく)
梁山泊(りょうざんぱく)は、中国の山東省済寧市梁山県のに存在した沼沢である。この沼を舞台とした伝奇小説『水滸伝』では周囲800里と謳われた大沼沢であった。
『水滸伝』での意味が転じ、「優れた人物たちが集まる場所」、「有志の集合場所」の例として使われることもある。
<日本での人気、派生語>
『水滸伝』は、四大奇書のひとつとして中国で広く読まれた(ただし、主に広まったのは70回本)。
日本にも江戸時代に伝わって民衆に好まれ、梁山泊の名は非常によく知られるようになった。このため、日本では「梁山泊」は有志の巣窟を意味する代名詞のように使われる。たとえば明治初期、大隈重信の東京の私邸には井上馨、伊藤博文ら若手官僚が集まり政談にふけったため、「築地梁山泊」と呼ばれる。
その他、手塚治虫、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、赤塚不二夫、石ノ森章太郎らが住んでいたトキワ荘が「マンガ家の梁山泊」と呼ばれている。
(以上 ja.wikipedia.org より抜粋)
《津本陽氏の自作解説》
著者の津本陽氏は『新釈水滸伝』の下巻巻末で、『水滸伝』の解説と自著の作品意図を、次のように書いている。
南宋の頃には、宋江についての伝記作者も出て、次第に英雄逸話は拡大され、最初の36人は、天こう星36・地さつ星72の計108人にふえ、現在の形式の水滸伝が明初にまとまったのである。
筆者は108人の天兵が、梁山泊に結集してゆくまでのくだりをこの作品でえがいた。水滸伝という英雄譚の持つ、気宇壮大な妙味が、このあたりにまとまってあらわれているためである。作中には、中国の風土と、そこに生きる男女の人情が、極めてこまやかにえがきだされている。日本とははっきりとちがう、大陸に住む人々の雰囲気が、伸びやかな風景のうちに漂っている。著者は、この雰囲気を作中にあらわすことに、力を注いだつもりである。
2001年11月20日
(編注)『秀樹杉松』第94巻は本号2620号で終わり、次号から第95巻となります。
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『秀樹杉松』94巻2620号 2018-6-11, hideki-sansho.hatenablog.com #260
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