今日は絶好の「五月晴れ(さつきばれ)」(旧暦皐月=5月の梅雨の晴れ間)に恵まれたので、板橋区成増の7坂を巡ってきました。これまで55回、529の坂を歩きましたが、板橋区が少なかったので坂学会の坂情報を調べたら、地図には載ってないがやはり結構な数の坂がありました。そこで、いくつかが集中している成増を選んで出かけました。
「東武東上線成増駅」は知っているが、今日行ったのは川越街道の「地下鉄成増駅」。有楽町線と副都市線が同じ線を走る、ホームで待っていると横浜中華街行きと新木場行きが入ってくる、など、なんか別世界に行った感じでした。
今日の坂めぐりのハイライトは、その川越街道と旧川越街道も絡む新田坂(しんでんざか)と白子坂(しらこざか)でしょう。『秀樹杉松』坂めぐりも500坂を越えたので、歩くだけでなく「坂学」も少し深まってきたようです。今回は白子坂について、いささか考察を試みました。もとより愚考そのものですが、関心のある方はその箇所もお読みいただければ有難いです。 / Atelier秀樹
地下鉄成増駅(スタート)
①小次郎兵衛久保坂(こじろべえくぼざか)(#530)
板橋区成増1丁目と2丁目の間。地下鉄成増駅から東南東に下る坂。川越街道。標識なし。由来他:坂を下りきったあたりは小次兵衛窪と呼ばれた。小次兵衛は人の名で「橋を造ってくれた盗人小次兵衛」という昔ばなしに語られている。街道を荒らした盗人であったが,改心して窪を流れる小川に立派な橋をかけて旅人の難儀をすくったという。坂下から帳元の坂の上りになる。(「郷土 板橋の坂道」による)。
参考文献:「郷土 板橋の坂道」いたばしまち博友の会 平成10年 (sakagakkai.org)
②帳元の坂(ちょうもとのさか)(#531)
板橋区成増1丁目と2丁目の間から 成増2丁目と赤塚新町3丁目の間まで。小次兵衛久保坂の坂下から 南東に上る坂。 川越街道。標識なし。由来他:小次兵衛久保坂の下からすぐに上りになる坂。坂上の赤塚新町の辺りを帳元という。“帳元”の名の由来は,江戸時代から今日にいたるまで,城北一帯の工業モノ等の一切の勘定の取り締まりをしていた帳元の家(友山氏宅)があることによる。(「郷土 板橋の坂道」による) (sakagakkai.org)」
成増小学校
③成増坂(なりますざか)(#532)
板橋区成増1丁目と2丁目の間。地下鉄成増駅の北西から 都県境の東崎橋附近まで。川越街道。標識なし。旧川越街道を直線化した新道として開かれた。(「郷土 板橋の坂道」による)。坂名は地名の成増からつけられた。 (sakagakkai.org)
東埼橋(とうさいばし)
東京と埼玉県境の白子川に架かるから「東埼橋」。
④新田坂(しんでんざか)(#533)
板橋区成増2丁目。別名:白子坂。国道254号(川越街道)の北側を平行する狭い道。坂上は地下鉄成増駅から300mほど北西,途中八坂神社の横を通り,白子川方向へ下る。旧川越街道。八坂神社前の空地に「新田坂道祖神等石造物記念碑」と,その横に教育委員会が設置した「新田坂の石造物群」という説明板も建っている。(これらは坂道の標識ではないが,坂名を記した証拠として記録しておく。)
→ 新田坂道祖神等石造物記念碑 昭和五十九年度板橋区登録有形文化財 道祖神碑 丸彫地蔵像 稲荷石祠 大山常夜燈 平成元年七月吉日 成増新田坂史蹟保存会 (sakagakkai.org)
新田坂の石造物群
新田坂道祖神等石造物記念碑
新田宿と八坂神社(掲示板)
板橋宿の平尾(板橋宿三丁目)と分かれた江戸時代の川越街道は、上板橋宿、下板橋宿を経て、白子宿へ向かいます。八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近は白子川へ下りるため大きく曲がった急坂(新田坂)になっていました。
新田坂から白子川の間は、新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達していました。昭和初期には、小間物屋や魚や、造り酒屋など幹を連ねていました。
八坂神社は、京都の八坂神社を勧請したといわれ、「天王さま」とも呼ばれています。御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と稲田比売命(いなだひめのみこと)です。元々は現在地よりやや南側にありましたが、昭和8年(1933)の川越街道新道(国道254線)工事の際に移されました。
八坂神社(やさかじんじゃ)
八坂神社の手前で川越街道(左)と旧川越街道(右)が分かれる。右側の旧街道の此処からなだらかに下る坂が元々の「白子坂」だと思われるのですが。
⑤百々女木坂(すずめきざか)(#534)
板橋区成増3丁目。赤塚第二中学校前から旧“百々女木川”に下る坂。標識なし。由来他:“百々女木”は,川の流れる音,あるいは沢山の雀などの鳴き声からつけられたと言われるが,明らかでない。“百々女木川”は“百々向川”とも書かれ,光が丘公園付近から始まり,成増駅付近を通って,旧白子側に合流して,最終的には荒川につながる川であったが,現在は暗渠になっている。
参考文献:「郷土 板橋の坂道」いたばしまち博友の会 平成10年 (sakagakkai.org)
赤塚二中(左)と成増ヶ丘小(右)
⑥小井戸坂(こいどざか)(#535)
板橋区赤塚3丁目と成増4丁目の間。“上赤塚交番前”交差点の1ブロック北から南西に,“成増ホール”“上赤塚公園”の前を上る坂。標識なし。上赤塚公園の北側を通る坂で,小井戸の谷頭にあたる。昔は急坂だったが,今は埋められてなだらかになっている。(「郷土 板橋の坂道」による)。坂名の由来は不明。 (sakagakkai.org)
上赤塚公園
⑦太郎坂(#536)
板橋区成増4丁目。成丘通りを東北東に向かい,途中で直角に北北西に曲がる。坂上の先は青蓮寺方面。坂下の先は成増ヶ丘小学校方面。標識なし。坂名の由来は不明。今の成丘通りの一部。北側は徳丸久保といわれる窪地で,窪地の縁に沿って大きく曲がり青蓮寺の方に向かう。西に向かえば百々女木坂になる。(「郷土 板橋の坂道」による) (sakagakkai.org)
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【番外】白子坂(しらこざか)
板橋区成増の「白子坂」と埼玉県和光市白子の「白子坂」、「滝坂」の3坂を、番外として歩いてきました。「番外」とした理由は、坂学会の坂リストに板橋区成増の「白子坂」は含まれておらず、埼玉県和光市の「白子坂」と「滝坂」は坂めぐりの対象外だらです。
白子坂(旧川越街道)(板橋区成増2丁目)【番外】
(1)…急勾配の小坂を下りると、八坂神社の裏。このあたりからなだらかに下る道が旧川越街道・白子坂。(中略)坂南側の旧家・油屋原田家(成増2-35)の古い土蔵の先に標示板が立ててあり、つぎのように記してある。「川越街道と白子坂 (中略)赤塚の成増の丘陵から急坂を下った地点を流れる白子川を中心に白子宿が設けられ、この坂も宿の一部である。ここの土蔵造りの邸は寛永のころから油屋を営んだ旧家であり、町なみにも当時のおもかげがしのばれる。(「今昔 東京の坂」(岡崎清記、日本交通公社出版局、昭和56年9月1日初版より)。(注: 2013年10月現在、上記の記述にある標示板も、土蔵も残されていない)
白子坂(二丁目)…八坂神社から白子川に下るゆるやかな坂をいいます。白子川をはさんで江戸時代、川越街道の白子宿がありました。宿場の成立は戦国時代までさかのぼるといわれています。(「いたばしの地名」(文化財シリーズ第81集、平成7年(1995年)3月31日発行、編集 板橋区地名調査団、板橋区教育委員会社会教育課)のp75より)。
(坂マップ:saka30maps.com)
(2)新川越街道から旧川越街道に入るとすぐに、なだらかな下り坂が200メートルほど続く。この坂が「白子坂」である。坂の途中には、古い家屋もあり、静かな街並みに昔の面影が残っている坂を下ると、白子川に架かる白子橋がある。
(Googleブックス:books.google.co.jp)
白子坂(川越街道)(和光市白子2丁目)【番外】
埼玉県和光市白子2丁目。熊野神社及び、和光市白子コミュニケーションセンター南側の坂。標識無し。熊野神社の南を西に上っている。土地の人はこの坂を白子坂(東京側の白子坂と異なる)と呼んでいる。(「東京の坂風情」より)
(sakagakkai.org)
白子川(しらこがわ)
白子橋
白子橋には白子出身の清水かつら作詞の「♪靴がなる」の歌碑が建てられています。「川歩き」以来の、4年ぶりの再会で、大変に嬉しかったです。
滝坂(番外)
地図に「滝坂」の表示があったので(坂学会のリストにはないが)、旧川越街道を白子橋を越えて白子宿通を過ぎたら、「滝坂の由来と湧き水の利用」の看板がかかり、湧水が流れていました。
長い急坂がありました。「滝坂」なのか、それとも旧川越街道の「白子坂」なのか、興味が湧きました。
白子コミュニケーションセンター(白子コミセン)
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【考察】
新田坂と白子坂 〜 白子坂はひとつか、二つか / Atelier秀樹
(1)坂学会では成増の「新田坂」の別名を「白子坂」だとしていますが、その辺のことが私にはよく理解できない点があるのです。そこで、細かいことで恐縮ですが、以下少し立ち入って書くことにします。
(2)坂学会の説明(前出)では、新田坂(別名:白子坂)は「国道254号(川越街道)の北側を平行する狭い道。坂上は地下鉄成増駅から300mほど北西,途中八坂神社の横を通り,白子川方向へ下る。」とあります。板橋区教育委員会の掲示「新田宿と八坂神社」には、「八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近は白子川へ下りるため大きく曲がった急坂(新田坂)になっていました。」
つまり、白子坂は新田坂の別名、となっています。
(3)一方「坂マップ」が引用している「今昔 東京の坂」によれば、「急勾配の小坂を下りると、八坂神社の裏。このあたりからなだらかに下る道が旧川越街道・白子坂」。
つまり、「白子坂」の存在を明記しています。
(4)同じく引用されている「いたばしの地名」(文化財シリーズ第81集)によれば、「(白子坂は)八坂神社から白子川に下るゆるやかな坂をいいます。」とあります。
ここでも、八坂神社から白子川に下る緩やかな坂を「白子坂」としています。
(5)「Googleブックス」によっても、「新川越街道から旧川越街道に入るとすぐに、なだらかな下り坂が200メートルほど続く。この坂が「白子坂」である」となっています。
(6)以上のことから、私見を記せば、白子坂は新田坂の別名というよりは、新田坂の先に続く坂(八坂神社から白子川に下る200メートルほどのゆるやかな坂が)白子坂であると考えていいのではないか。旧川越街道の「新田宿」集落の坂を「新田坂」、その先・白子宿の坂を「白子坂」と呼んでいたのではないでしょうか? その意味では、同じ一本の道(旧川越街道)ではあるが、坂としては南東側(新田坂)と北西側(白子坂)に分かれる、とも考えられる。
(7)昭和8年に新(現)川越街道ができて、新旧街道は成増の八坂神社で旧街道とV字型に分岐し、新街道は直進し、右側に分かれたのが旧街道で、ここから白子坂が始まる、と考えられる。
(8)ところが、旧道から分かれて直進して白子川を渡った新川越街道の坂を、和光市白子の地元が白子坂と呼び始めたから、複雑になってしまっているのでなないか。この新川越街道を「白子坂」と認定し、旧川越街道(成増)の白子坂を認めると、“二つの白子坂”が存在することになる。坂学会のリストに成増の白子坂が新田坂の別名とあるのは、その辺の事情に絡むのかどうか、今ひとつ分からないのです。
(9)私見によれば、二つの白子坂が存在してもおかしくはない。ただ、和光市白子の坂を「新白子坂」とでも呼べば混乱は避けられるのではないか。私もこれまで500坂以上歩き巡ったので、旧道と新道にまつわる同様な問題が他にもありました。新道の坂に「新〇〇坂」という名をつけて、新旧並存で折り合いをつけているケースもあった。この新旧方式が無難でしょうが、広い直線の新道がメインストリートとなるので、狭い旧道の坂道(本来の〇〇坂)は陰に追いやられます。そのため「昔は〇〇坂と呼んでいた」と、ヒストリー記述するケースもあった。
(10)何はともあれ、東京都(旧川越街道)と埼玉県(新川越街道)が、「白子坂」をシェアするのは、面白くて微笑ましいことだと私には思えます。その意味で、「二つの白子坂」を認めるのも、無益ではないと思いますが。
(11)もう一つ私見を書けば、坂学会が「新田坂」の別名を「白子坂」としているが、これまで紹介した文献資料によっても、また新田宿と白子宿があることに照らしても、同じ旧川越街道の延長線上にある「新田坂」と「白子坂」は、異なる別の坂として扱ってもよろしいのでは? 現に、Googleブックス、坂マップの扱いがそうなっています。(以上、私の書いたことは、全く的外れの「愚考」だともいえないかもしれません。少なくとも、坂マップとGoogleブックスは同じ考えですから。
(12)以上の次第で本項では、①新田坂と白子坂は別の坂、②旧川越街道の白子坂(板橋区成増)と現川越街道の白子坂(和光市白子)は別坂(二つの白子坂)、の立場をとり、両方を歩いてきました。しかし、①坂学会では、成増の「白子坂」を「新田坂」の別名としていること、②坂学会が「白子坂」とする和光市は私の坂めぐりの対象(東京23区内)外なので、「番外」としました。
(13)小難しいことはともかく、お陰で、4年ばかり前の「川歩き」で印象深かった「白子川」と「白子橋」に再会できたのは望外の幸せでした。懐かしさのあまり、もう一度写真を撮ってきました。
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「地下鉄成増」駅(ゴール)
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『秀樹杉松』95巻2624号 2018-6-22 / hideki-sansho.hatenablog.com #264
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