秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

第88回『秀樹杉松』坂めぐり(2018-10-5)~宝竜寺坂、焼餅坂、薬王寺坂、児玉坂、安藤坂、鼠坂、芥坂、逢坂、庾嶺坂、弁天坂、袖摺坂。~学生支援機構、大日本印刷、南蔵院、田村虎蔵顕彰碑、芥坂歩道橋。~坂所在地=新宿区市谷柳町、弁天町、市谷山伏町、市谷甲羅町、市谷薬王寺町、市谷左内町、市谷加賀町、市谷鷹匠町、市谷納戸町、市谷砂土上原町、神楽坂、市谷船河原町。

 

庾嶺坂(ゆれいざか)、袖摺坂(そですりざか)鼠坂(ねずみざか)、逢(おうさか)、焼餅坂(やきもちざか) 、芥坂 (ごみざか).....、面白い名前の坂が勢揃い! そして、作曲家田村虎蔵

 

 今日の11坂で、新宿区がやっと終了です。ハイライトは「袖摺坂」と「安藤坂」「田村虎蔵」でしょう。袖摺坂は本当に狭い階段。安藤坂は中根坂とつながる一本道で、坂学会は一つの坂(中根坂)として扱い、日本坂道学会は南の安藤坂と北の中根坂の2坂として扱っています。それぞれに言い分があるでしょう。

 私は1年ばかり前に手許の地図に拠って、北の中根坂のみを歩いてきました。今日行った南の「安藤坂」は、この間歩いた「中根坂」とは別の坂とします。

 本文に詳しく書きましたが、前回の善国寺前の案内地図からヒントを得て、国民学校・小学校の時に歌った「一寸法師」「金太郎」「花咲爺」などの唱歌の作曲家である「田村虎蔵の顕彰碑」の写真を撮ってきました。

 その他、「庾嶺坂」(ゆれいざか)、「焼餅坂」「袖摺坂」「芥坂」「逢坂」「鼠坂」など、面白い名前の坂がいっぱい登場します。ゴチャゴチャしてますが、楽しさいっぱいの内容ですので、ぜひご覧ください。 / Aelier秀樹

 

都営大江戸線牛込柳町駅(スタート)

 

宝竜寺坂(ほうりゅうじざか)(#701)

 ~別名:幽霊坂(ゆうれいざか)

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 新宿区市谷柳町と弁天町の間。外苑東通りを“市谷柳町”交差点から 北に200メートルほど進むと,右側に石段がある。東に向かって上り。30m。比較的傾斜の緩い階段。幅広い階段。

 坂下に新宿区が設置した標識がある。

→「宝竜寺坂 ほうりゅうじざか 昔, この辺りは七軒寺町という寺町で, この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。また明治頃, 寺の樹木が繁り,淋しい坂であり,幽霊が出るといわれたため,幽霊坂とも呼ばれた。 平成十六年二月 新宿区教育委員会

 

焼餅坂(やきもちざか)(#702)

 ~別名:赤根坂(あかねざか)

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 新宿区市谷山伏町と市谷甲良町の間。大久保通り。市谷小学校前より外苑東通りまで。東に向かって上り。240m。緩やか。わずかに右に曲がりながら上る。坂下の外苑東通り付近では 旧道を北に回り込む。

 坂の途中に 東京都が設置した金属製の標識がある。

→「焼餅坂 やきもちざか 昔,この辺りに焼餅を売る店があったので この名がつけられたものと思われる。別名 赤根坂 ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方 柳町に下る坂あり,焼餅坂という。即ち,岩戸町箪笥町より通ずる区市改正の大通りなり」とある。また「続江戸砂子」「御府内備考」にも,焼餅坂の名が述べられている。 昭和五十八年五月 東京都」

 

薬王寺(やくおうじざか)(#703)

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 新宿区市谷薬王寺町外苑東通りの“市谷薬王寺町”交差点から北に70mで,西に入る狭い道。薬王寺坂通り。この通りは200mほど西に進むと袋小路になっている。西に上る。90m。やや急坂。直線の坂。

 坂名の標識はないが,坂下と坂上に 通りの通称名を示す標識がある。

→「薬王寺坂通り Yakuojizaka-dori    江戸時代,現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。 新宿区」

 また 坂下に「薬王寺坂通り」と書かれたシンプルな案内板がある。

 2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し 67路線の道路通称名が決定薬王寺坂通りもその一つとして 標識が建てられた。

 

児玉坂(こだまざか)(#704)

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 新宿区市谷薬王寺町。。外苑東通りの“市谷役王寺町”交差点と“市谷仲之町”交差点の間で西に折れたところが児玉坂。児玉坂通り。西に向かって上り西に向かって上り。45m。緩やか。直線の短い坂。

 坂名の標識はないが,坂上近くに通称名記した標識が立っている。

→「児玉坂通り Kodamazaka-dori  日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将,児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった。 新宿区」

 2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し 67路線の道路通称名が決定,児玉坂通りもその一つとして 標識が建てられた。

 

安藤坂(あんどうざか)(#705)

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 新宿区市谷左内町市谷加賀町1丁目の間。“学生支援機構”前の交差点から北へ,大日本印刷市ヶ谷工場の間を下る坂。スリバチ状の道の南半分。南に向かって上る。90m。急坂。直線のスリバチ状の坂の南半分。「安藤坂」の標識はない。かつて 坂の南端(日本学生支援機構=旧・日本育英会の向い側)に新宿区が設置した「中根坂」の標識があった。

 坂の名は市谷左内町のほとんどが旗本安藤杢之助の屋敷であったことからつけられている。(「東京の坂風情」より)

 この坂の南半分を「安藤坂」,北半分を「中根坂」としている文献・サイトが多いが,本稿では新宿区の説明に従って,スリバチ状の坂全体を「中根坂」とし,南半分に「安藤坂」の名称が併用されていたと解釈する。

 

<編注1>

 地図帳の記載により、この坂を「中根坂」として既に歩いています。その意味では今回が二度目になるが、「坂学会/東京23区の坂」には、上記の説明をしながら、二つの坂名が載り、地図でも色違いで表示されているので、今日は南半分を「安藤坂」として歩いてきました。

<編注2>

 「日本坂道学会」の「東京23区の坂道」では、中根坂と安藤坂は別の坂とされており、「安藤坂」の説明は、

「中根坂と向かい合っており、中根坂の坂下から南へ登る坂道です。」とあります。(tokyosaka.sakura.ne.jp

 

学生支援機構 / 大日本印刷

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鼠坂(ねずみざか)(#706)

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 新宿区市谷鷹匠町と納戸町の間。中根坂の途中,大日本印刷の工場前を東に入った先を北に曲がり,そこから大日本印刷の若葉寮に抜ける小道。北東に向かって上り。70m。かなり急な坂。右に曲がりながら上る,狭い道。

 坂の途中に新宿区が設置した標識がある。

→「鼠坂 ねずみざか 細くて狭い坂だったから,鼠がとおるほど狭かったから,そう名付けたのであろう。 平成三年九月 東京都新宿区教育委員会

 

芥坂(ごみざか)(市ヶ谷)(#707)

 ~別名暗闇坂(くらやみざか)闇坂(くらやみざか)

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 新宿区市谷鷹匠町市谷砂土原町丁目の間。階段部分は 新宿区市谷長延寺町大日本印刷構内)。坂上浄瑠璃通りの坂上。坂下は長延寺谷(現在は大日本印刷構内)にかかる歩道橋。北東に上る。15m。高低差:8m(歩道橋を含む)、坂下地上の標高:18m。短い階段坂。そのまま歩道橋を経て下の道路に階段で下りる。

 標識はないが,歩道橋に“ごみ坂歩道橋”の表示がある。

 文字通り長延寺谷のゴミ捨て場へ通じる坂であったからとの説がある。長延寺谷(市谷の一の谷:一説には市谷の地名もこれに起因するとも言われている)へ通じた坂下は失われ、大日本印刷の構内となっている。このため階段坂は中途で途切れ歩道橋となり、一般道に接続している。坂上浄瑠璃坂の坂上に接続する。

 参考文献:『東京の階段 都市の「異空間」階段の楽しみ方』松本泰生 日本文芸社 2007 

<編註>

前回の同じ新宿区筑土八幡町の「芥坂」とは、1kmぐらいしか離れていません。ゴミの捨て場、集積場へ至る坂道は、昔でも当然あちこちにあったのでしょう。

 

ごみ坂歩道橋

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逢坂(おうさか)(#708)

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 新宿区市谷船河原町。JR飯田橋駅から南東に 500mほどの距離で,外堀通りから 牛込の高台に上る坂。船河原町築土神社の前から西に向かう。西に向かって上り。75m。急坂。坂上に向かって わずかに左に曲がる,短い急坂。

 坂下に新宿区が設置した標識がある。

→「逢坂 昔,小野美作吾という人が武蔵守となり,この地にきた時,美しい娘と恋仲になり,のちに都に帰って没したが,娘の夢により この坂で再び逢ったという伝説に因み,逢坂とよばれるようになったという。 平成三年九月 東京都新宿区教育委員会

 

庾嶺坂(ゆれいざか)(#709)

 ~別名:「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」

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 新宿区神楽坂1丁目と市谷船河原町の間から若宮町まで。外堀通り飯田橋駅から市谷駅に向かい,若宮町と市谷船河原町の間,飯田橋レインボービルの手前で北西に入る。ここから若宮八幡神社に向かう坂。北西に向かって上る。120m。急坂。わずかに弧を描いて上る。

 坂下に新宿区が設置した標識がある。

→「庾嶺坂 ゆれいざか 江戸初期,この坂のあたりが美しい梅林であったため,二代将軍秀忠公中国江西省の梅の名所 大庾嶺 にちなみ命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。 平成二年三月 新宿区教育委員会

 

<編注>「外濠」を隔てた千代田区富士見2丁目(300mも離れていない)にある幽霊坂」と紛らわしいが、「庾嶺」は中国の地名の由。別名が3つつくほどの「美しい梅林」だったのでしょう。

 

10.弁天坂(べんてんざか)(#710)

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 新宿区箪笥町から横寺町まで。地下鉄牛込神楽坂駅の上,南蔵院という寺の前から 大久保通りから分岐して,大久保通りと平行した後に,直角に曲がって北西に上る。途中で袖摺坂の階段が分岐している。坂上は 朝日坂の坂上につながる。坂下は北東に向かい,途中で直角に曲がり北西に向かって上る。110m。緩やか。L字状に曲がって上る。

 坂下の大久保通り側に,東京都が設置した黒い金属板型の標識がある。

→「弁天坂 べんてんざか 坂名は,坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には,南蔵院門前に あまざけやおでんを売る屋台が立ち,人通りも多い様子が描かれている。坂上近くの横寺町47番地には,尾崎紅葉が,明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟 泉鏡花小栗風葉らが玄関番として住み,のちに弟子たちは 庭続きの箪笥町に家を借り,これを詩星堂または 紅葉塾と称した。 昭和五十九年三月   東京都」

 標識が大久保通り側にあるため,弁天坂=大久保通りと間違えていた。文献によって修正。

 

11.袖摺坂(そですりざか)(#711)

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 新宿区横寺町と箪笥町の間。地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅 東出口近く。大久保通りの‘箪笥町’交差点付近の北に上る20段ほどの石段。現在は すぐ西側に車の通れる坂道が作られている。北北西に向かって上る。10m。急な階段。狭い階段

 坂上に新宿区が設置した標識がある。

→「袖摺坂 そですりざか 狭い坂道で,人々が通ると,お互いに袖を摺り合わされるほどだったという。そんなことから,誰いうとなく袖摺坂というようになったという。 平成三年九月   東京都新宿区教育委員会

 

南蔵院 /  牛込神楽坂駅

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◉神楽坂の「善国寺」前にある案内地図

 前回(10/3)の坂めぐりの末尾で<参考>として、神楽坂の「善国寺」前にある案内地図の拡大写真を紹介し、画像をかくだいすると、芥坂」「筑土八幡神社はなんとか読めると書きました。「芥坂」の下にある幾つかの漢字は判読できませんでした。

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「芥坂」と「筑土八幡神社」はなんとか読めたが、帰宅後、最大限の拡大を繰り返し、ネットでキーワード検索を重ねるなど苦労の末に、一番下の横書きの漢字の解読にたどりつきました。冒頭の「田」と真ん中の「蔵」は最後まで判読できませんでした。全く知らない田村虎蔵旧居跡だったのです。

 慌てて調べたら、田村虎蔵は戦前戦時中の作曲家で、国民学校、小学校時代に愛唱した「金太郎」「花咲爺さん」「一寸法師」「青葉の笛」などを作曲した大作曲家であること知り、ビックリ。自分がそのことを知らなかったこと、二度びっくり。今日の坂めぐりの最大の収穫かもしれません。

 そこで。今日の坂めぐりで再度「筑土八幡神社」に立ち寄って、境内にある「田村虎蔵顕彰碑」の写真を撮ってきました。あの「♪金太郎」の楽譜をご覧ください。

 

田村虎蔵顕彰碑(筑土八幡神社境内)

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田村虎蔵先生をたたえる碑

 田村虎蔵作曲の ♪「金太郎」の楽譜

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田村虎蔵旧居跡

 神社の方のお話では、「田村虎蔵旧居跡」は、筑土八幡神社の裏一帯は田村虎蔵さんの屋敷だったので、以前は「田村虎蔵旧居跡」と出ていたが今は無く、今は田村家とは全然関係がなく、マンションが立ち並んでいる、とのことでした。

 

都営大江戸線牛込神楽坂駅(ゴール)

 

<編注>坂名と坂解説は、

「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。

  坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算坂数。写真撮影はAtelier秀樹。

 

 『秀樹杉松』98巻2696号 2018-10-6  /  hideki-sansho.hatenablog.com #336