<坂めぐり 90回記念号>
2つの「鍋割坂」と3つの「幽霊坂」、そして ...
数字との関わりは少なくない。不定期刊の雑誌ともいえる『秀樹杉松』には当然巻号をつけ、ブログの投稿回数にもナンバーを付しています。坂めぐりの回数にも番号をつけているが、今回は数字の区切りのよい第90回となりました。
区切りのよい回数に達すると、 峠の茶屋で“一服”してから、また出かけるという感じになります。その意味では、今回は9回目の一服です。10回目は有りや無しや?ちなみに、今日も10月10日という区切りのいい日です。
さて、前回は衆参両院の議長公邸がある「富士見坂」で終わりましたが、今日は地下鉄丸ノ内線の「国会議事堂前駅」からのスタートとなりました。なんか、90回目は国会と縁があるようです。
今日の坂めぐりは6坂だけですが、奇しくも、そのうち、
2坂は「鍋割坂」、3坂は「幽霊坂」となりました。
もちろん、こんな珍事は全くの“偶然の“巡り合わせ”にすぎません。
「第90回記念号」といえるかどうかわかりませんが、今日は坂数が少ないので、周辺の写真をたくさん撮ってきました。何より嬉しかったのは、路傍の秋の花たちが笑顔で迎えてくれたことでした。どうぞ、ご覧ください。
/ Atelier秀樹
<坂めぐり90回>を祝ってくれた 路傍の秋の花
今日は10月10日。以前なら「体育の日」。天候もよさそうなので、朝6時に出発、ゆうゆう昼前に帰宅しました。90回記念の坂めぐりを知っているのでしょうか、路傍の花が「おめでとう」と迎えてくれました。ありがとう!
地下鉄「国会議事堂前」(スタート)
国会議事堂
①鍋割坂(隼町)(なべわりざか) (#721)
千代田区隼町。国立劇場とグラントアーク半蔵門の間を東西に通る坂。東端は三宅坂の坂上になる。東西から上る,伏せた鍋のように中間が高い坂。160m。緩やか。ほぼ直線。標識なし。
この道は内堀通りから真っ直ぐ伸びて平河天神の正面にでる由緒ある参道坂であった。切絵図をみると,天保版でははっきり見える。明治11年の地図には,現在の半蔵門会館(現・グラントアーク半蔵門)から国立劇場・最高裁までは,陸軍本病院となっており旧道路は構内にとりこまれている。その後陸軍の中枢部に変貌し,戦後 国立劇場ができたとき鍋割坂の道も復活した。昭和30年代には,内堀通り桜田濠に面して一の鳥居がたっていた。坂の名から,このあたりは小丘があって,天神前へ真っ直ぐ切通し,すこし上って天神へ下っていったと思われる。(「東京の坂風情」より)
参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981
<編注>解説文中の「三宅坂」は、既に第一次坂めぐりで行ってきました。
②鍋割坂(九段)(なべわりざか) (#722)
千代田区九段南2丁目と三番町の間。内堀通りを “きんでん”横から 東に曲がり,千鳥ヶ淵に向かう坂。東西から上る,伏せた鍋のように中間が高い坂。90m。緩やか。直線の狭い坂。
→「鍋割坂 なべわりざか この坂を鍋割坂といいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが,どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同名の坂があります。 昭和五十年三月 千代田区」
桜田濠(左) / 半蔵濠(右)
千鳥ヶ淵公園
千鳥ヶ淵緑道
⑥中坂(なかざか)(#723)
~別名:飯田坂(いいだざか)
千代田区九段北1丁目。和洋九段女子高校の前を通る坂。冬青木坂の一筋南の通り。西に上る。190m。やや急な坂。直線。
坂の途中に千代田区が設置した標識がある。
→「中坂 平成十三年三月建替 千代田区教育委員会 この坂を中坂といいます。「御府内沿革図書」によると,元禄三年頃(1690)までは武家地となっており坂はできていませんが,元禄十年(1697)の図以降になると 中坂が記載され,元禄十四年(1701)以降の図には世継稲荷神社もみることができます。なお,「新撰東京名所図会」には「中阪は,九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中阪と称するは,冬青(もちのき)阪と九段阪との中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は,皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。」
中坂という名称は,冬青坂と九段坂との中間にあるため。(標識より)
<編注>平河町1丁目にも「中坂」があります。なお、上記解説文に出てくる「冬青阪(坂)」と「九段阪(坂)」は、第一次坂めぐりで既に歩きました。
飯田喜兵衛<編注>
この「中坂」の別名が「飯田坂」。そういえば、近くの町名が「飯田橋」で、駅名も「飯田橋」です。飯田喜平さんに由来しているんですね。坂解説文には「飯田喜平」の人物が書かれていないので、ネットで調べました。地元千代田区の「千代田観光協会」のサイトには、次のように記載されています。
→「飯田町の由来となった、江戸・千代田村の住人。一五九〇年(天正十八)、領主として江戸に入ってきた徳川家康は、のどかな農村地帯だった千代田村とその周辺(現在の飯田橋周辺)を視察するが、その際の案内役が喜兵衛。土地のことについて詳しく説明したその案内ぶりに感心した家康は、喜兵衛を名主に任命し、土地の名前まで、喜兵衛にちなんで飯田町とするように命じたという。その後、江戸の町の開発が進み、武家地となったため正式な町名はつけられなかったが、飯田町は通称として使われた。」(千代田区観光協会 kanko-chiyoda.jp)
和洋九段女子高・中
④幽霊坂(富士見1)(ゆうれいざか)(#724)
千代田区富士見1丁目。早稲田通りから 日本歯科大学と富士見小学校の間を南西に上る坂。南西に上る。170m。坂上部はかなり急坂。坂上部分は途中で“く”の字に曲がる。標識なし。広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからこの坂名になったのであろう。
参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981
⑤幽霊坂(富士見2)(ゆうれいざか)(#725)
~別名:勇励坂(ゆうれいざか)
千代田区富士見1丁目と2丁目の間。早稲田通りから 角川第3本社ビルの北側を南西に上る坂。坂上に角川書店本社ビル。南西に上る。120m。坂上部はかなり急坂。直線。標識なし。広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからこの坂名になったのであろう。
参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981
⑥幽霊坂(富士見3)(ゆうれいざか)(#726)
千代田区富士見2丁目。(旧)東京逓信病院高等看護学院の北西側を南東に上る坂。南東に上る。90m。やや急坂。直線。標識なし。
広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからこの坂名になったのであろう。なお,東京逓信病院高等看護学院は 2007年に閉校となった。
参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981
<編注>「幽霊坂」が1箇所に三つそろった珍しいケースでしょう。同じ千代田区の神田淡路町2丁目にもあります。坂文献には大抵、「鬱蒼とした樹々に覆われた、淋しい、昼なお暗い坂」などと解説されています。何処にでもあったでしょうが、流石に名前が名前だけに?、標識は少ないように私には思われます。
前項の「幽霊坂」(富士見2)の「別名:勇励坂」には、こうした雰囲気が感じられます。全く別の坂名にもできないし、同じ読みの全く別の意味の漢字を充てた?
富士見小学校
富士見一丁目(千代田区町名由来板)
角川富士見ビル
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<編注>坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。
坂名の直後の#は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。
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『秀樹杉松』98巻2698号 2018-10-10 / hideki-sansho.hatenablog.com #338