今月分写真アップ容量が切れる寸前なので、浅草の3坂めぐりを思い立ちました。「天狗坂」は有名な待乳山聖天(まつちやましょうでん)境内の石段で、「化粧坂」(けわいざか)と「衣紋坂」(えもんざか)は、ことさら有名な新吉原遊郭です。
/ Atelier秀樹
地下鉄銀座線「浅草駅」(スタート)
小雨に烟るスカイツリー
待乳山聖天(まつちやましょうでん)
①天狗坂(てんぐざか)(#771)
「天狗坂」は開放され、誰でも入れるようになったてま。
台東区浅草7丁目。“待乳山聖天”の境内。本堂右手の鉄扉のついた石段で,東側の隅田川沿いの道路に下りる。石段は 改修されて新しいが,通常 入口の扉は閉鎖されていて通行止めとなっている。坂下は北西に,坂上は北東に上る。20m。急坂。L字型に曲がる階段。
階段上に立て札風の標識がある。
→「天狗坂 てんぐざか 昔時は大木がうっそうと生い茂り, 坂を降りたところに竹屋の渡しがあった。
天狗坂 夕木枯の おもいでに 久保田万太郎 」
待乳山聖天の本堂東側は,昔は樹木が鬱蒼と茂って 天狗が出そうな森だったため,この坂の名前になったと思われる。
<編註>従来閉鎖されていた天狗坂(階段)入り口に、「開放しました」の掲示が出ており、おかげで写真撮影できました。
山谷堀(さんやぼり)
江戸初期に荒川に反乱を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出口である歩い窓まで作られた、現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入り口まで埋め立てられ、日本堤から隅田川入り口までの約700メートルが、台東区立「山谷堀公園として整備されている。
江戸時代には、新吉原遊廓への水上路として、隅田川から遊郭入り口までのオオモン近くまで猪牙舟(ちょきぶね)遊客を乗せて行き来し、吉原通いを山谷通い」とも言った。(Wikipediaより)
山谷堀公園(さんやぼりこうえん)
現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入り口まで「山谷堀公園」となっている。
山谷堀橋(左)と地方橋(じかたばし)(右)
新吉原
(掲示板の文章)
明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入り口は吉原大門の一箇所のみだった。
新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた、浮世絵を見てみると、誘客が名残を惜しんで振り返った位置にあったとされる「見返り柳」や、大門と桜並木と艶やかな遊女の様子が描かれ、当時の賑わいを見ることができる。
日本堤公園
(掲示板の文章))
日本堤(にほんつつみ)は新吉原への道の一つとし、浮世絵や歌舞伎の題材としても取り上げられ、江戸の名所として賑わいを見せた。日本堤が築かれたのは、新吉原ができる37年前の元和6年(1620)とされ、その理由は、低地地帯である浅草・下谷を隅田川出水による氾濫の被害を防ぐためであった。江戸幕府が全国の諸大名に命令して築庭したことから「日本堤」と呼ばれるようになったと言われるが、由来は諸説ある。
浮世絵を見ると、吉原に向かう誘客相手の茶屋など日本橋沿いに立ち並んでいる様子や、遊郭の中にいる猫が鳥の市帰りの客を見下ろしている場面、田んぼの中でタヌキに化かされた人たちのユーモラスな様子などが描かれている。
日本堤公園
②化粧坂(けわいざか)(#772)
台東区浅草5丁目。土手通りの“吉原大門”交差点から南東に下る
坂。北東に上る。140m。ほとんど傾斜は感じられない。(痕跡)。直線。標識なし。
由来他:日本堤の土手道が拡幅されたため低い普通の道路となった。そのために山谷堀や千束通りから土手に上るかぎ型の坂道が,痕跡すらなくなるように変貌した。山谷堀の船からあがった遊客は,今の地方橋付近から日本堤の土手にあがって吉原の大門にむかった。今の都水道局ポンプ場に対する町筋には,25軒ほどの遊客たちに貸す編笠屋があった。一種の風俗習慣であろうが,客は笠をかぶり扇子で顔をかくして大門をくぐった。つまり化粧をする坂の意である。(「東京の坂風情」より)
かつては 3m以上も高い堤があったと言われる土手通りは,現在は全く平坦な道路となり,衣紋坂や化粧坂は名前だけとなっている。命名時期:江戸時代
吉原大門
新吉原江戸町二丁目
③衣紋坂(えもんざか)(#773)
台東区千束4丁目。土手通りの“吉原大門”交差点から南東に下る坂。坂下は北東に向かい,途中S字状に曲がって,坂上も北東に上る。140m。ほとんど傾斜は感じられない。(痕跡)。S字状に曲がる。標識なし。
由来他:千束4丁目の主要部はむかしの新吉原である。町並みはたてよこに整然と道を挟んでいるが,大門の入口だけが曲がった道となっている。今は日本堤の土手道がひろげられて低くなっているので緩い坂となっているが,かつては,2間ほども高い堤道から大門口に下るのはかなりの勾配であった。そのために大門までは曲がった坂道にせざるをえなかった。坂名は遊客が遊廓入口の大門にむかうとき,風姿を整える衣紋直しからつけられた,(「東京の坂風情」より)
かつては 3m以上も高い堤があったと言われる土手通りは,現在は全く平坦な道路となり,衣紋坂や化粧坂は名前だけとなっている。命名時期:江戸時代
地下鉄銀座線「浅草駅」(ゴール)
<編註>坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。
坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。
『秀樹杉松』99巻2710号 2018-10-23/ hideki-sansho.hatenablog.com #350