秀樹杉松

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<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(7)富士見坂と潮見坂

 

 今回は、富士見坂潮見坂についての横関英一さんの著述を紹介します。読み進むほどに、『江戸の坂 東京の坂』の素晴らしさに感銘を覚えます。ただ、この本が書かれたのは半世紀も前なので、今とは多少状況が異なる箇所もあるので、その点にご留意ください。なお、私は東京23区内の876坂を歩き巡りましたので、その時の写真をいくつか添えます。 / Atelier秀樹

 

1)富士見坂

<富士見坂という名称の坂>

 江戸時代から富士見坂という名称を持った坂が、今でも東京の各所に存在する。大概は西向きの坂であるが、まれには南向きの坂もある。今日では、その坂の上から富士の見える坂は少ない文明が、富士見坂から富士を駆逐してしまうのである。ことに南向きの坂からは、全く富士を見ることができない。今日では、日ごとに高いビルなどが、坂の下にはもちろんのこと、坂の中腹にすらどんどん建てられるので、よほどの高い坂でない限り、または富士に直面した坂でない限り、昔のように富士を見ることはできなくなってしまった。

 

 江戸の昔から富士見坂と呼ばれて、いつも立派な富士の見えた坂は、九段の靖国神社北わきの富士見坂衆議院議長公邸(戦前の赤坂見附閑院宮邸)前の坂、大塚仲町護国寺前の坂であったが、今ではこれらの坂からさえ富士を見ることはなくなってしまった。

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 ↑ 富士見坂千代田区衆議院議長邸前)

   第89回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.7)、写真撮影:Atelier秀樹

 

<行人坂、皀角坂>

 富士見坂という名称は持たなくとも、昔から富士が見えて、錦絵その他に写されている坂の一つに目黒の行人坂がある。水道橋のところから神田川に沿って駿河台へと上る皀角坂(さいかちざか)と、神田川をはさんで、これに並行した本郷の御茶ノ水とは、四、五年前までは、昔の絵と変わらない美しい富士を見せてくれた。しかし、これらの坂の上からはもう富士は全然見られない。今日では富士見坂とは限らず、すべての坂の上から、富士が見えるとは限らなくなってしまった。

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  ↑ 行人坂(目黒)

  第47回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.19)、写真撮影:Atelier秀樹

 

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 ↑ 皀角坂(さいかちざか)(千代田区神田駿河台

    第91回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.12)、写真撮影:Atelier秀樹

 

<今でも富士の見える坂>

 今日でも富士の見える坂がある。日暮里の花見坂(別名:富士見坂)と、麻布の富士見坂(青木坂とも)。これで富士の見える富士見坂は、現在東京にはこれら二つに富士見坂があるだけとなった。        

             (横関英一『江戸の坂 東京の坂』p.056~p.061 から)

 

 

2)潮見坂 

東京湾の海が見える坂>

 富士見坂と同じような坂に、潮見坂がある。東京の潮見坂はほとんどみな東向きである。すなわち東京湾の海が見える坂である。江戸時代においても同様。深川、本所はもちろんのこと、日本橋、京橋方面が海であったころの潮見坂もあれば、牛天神下(今の江戸川端一帯の低い地)が入り江になっていた頃の潮見坂もある。

<潮見坂と汐見坂、塩見坂>

 潮見坂は汐見坂塩見坂などといろいろ書かれたが、意味は同じで、海が見える坂ということである。ふつう、潮見坂または汐見坂と書かれることが多いが、汐見のほうが絵図などの木版印刷には刻字が簡単で便利であったから、昔は盛んに使われた。

<今は海の見えない潮見坂>

 江戸時代から潮見坂と呼ばれた坂は、七つ八つを数えるが、今日でも海が見えるという潮見坂は一つもない芝の潮見坂はごく最近まで、高輪一丁目から東京湾がよく見えた。広重の『坂づくし』にも描かれ、長谷川雪旦も『江戸名所図会』の挿し絵として描いた坂であった。戦前までは、一段高い歩道に立って東を望めば、品川の海がよく見えて、お台場をはじめ大小の船が手に取るように見えた。今日ではもうダメ。この坂でさえもう海がが見えなくなったのだから、他の潮見坂から海が見えないのは当然。

江戸城本丸内の潮見坂>

 江戸旧本丸内にも潮見坂があった。本丸から二之丸に下るところで、坂の下は、その後主馬寮馬場のあったところ。今日でも、ここのところは皇居東御苑命名されて、昭和43年10月から一般に開放された。ここの潮見坂も、今度は自由に見ることができる。しかし、この坂からは海は見えない。

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   ↑ 汐見坂(潮見坂)皇居東御苑

           第113回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.11)、写真撮影:Atelier秀樹

<編注>『江戸の坂 東京の坂』では「潮見坂」だが、現地の標識は「汐見坂」となっていました。

 

<牛坂古くは潮見坂

 小石川牛天神の牛坂も、古くは潮見坂と呼ばれた。西向きの坂であるから、東京湾の海が見えた塩見坂とは違う。牛天神付近が往古の入り江であった頃のことで、古い潮見坂である。鮫干坂(さめほしざか)、蠣殻坂(かきがらざか)の別名があった頃のことである。

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  ↑ 牛坂(文京区小石川)

    第93回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.16)、写真撮影:Atelier秀樹

 

<潮見坂と呼ないが、海の見えた坂>

 潮見坂と呼ばれたことはないが、海のよく見えた坂としては、芝の下高輪町の桂坂がある。品川駅前を西に下る柘榴坂 (ざくろざか)からも、品川の海がすぐ目の前に見えたものである。しかし今日では、高いビルの幕にさえぎられて、海は見ることができなくなった。

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  ↑ 柘榴坂(ざくろざか)(品川)

   第117回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.23)、写真撮影:Atelier秀樹

 

<八景坂>

 大森の八景坂からも、広々とした大きな海が見えたものである。この坂は別に、東向きの坂ではないが、その頃は埋め立て前で、海岸に近いところからよく海が見えたが、今日ではもう見えない。しかし、この八景坂(はっけいざか)は新しい八景坂のことで、古い昔の八景坂(やけいざか)(薬研坂とも)からは、今でも海は見える。天気のよい日は、ピカピカ光った海が見え、白い船や黒い船の航行する様がはっきり見える。江戸の坂で、海の見える坂はとうとうここだけになってしまったが、やがてここからも海は見えなくなってしまうだろう。

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   ↑ 八景坂大田区大森)

                   第61回秀樹杉松坂めぐり(2018.7.20)、写真撮影:Atelier秀樹

 

<さびしい>

 富士見坂と言い、潮見坂と言い、古くは江戸城のお天守のように、江戸っ子があれほど自慢にしていたものが、こうしてだんだんに消えて行くのを見ると、確かにたまらない寂しさである。ところが、潮見坂という名前の本家本元である東海道の潮見坂は、今尚健在である。   (横関英一『江戸の坂 東京の坂』p.061~p.066から)

 

『秀樹杉松』101巻2758号 2018-12-25/hideki-sansho.hatenablog.com #398