秀樹杉松

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<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(8)昌平坂いろいろ

 

今日とりあげる昌平坂いろいろ」は、4つの坂が文字通り複雑に入り組んでいるので、横関氏の文章(名文)を要約して、便宜、私の<編注>だけでお届けすることにいたします。

 

1)最初に、私が実際に坂めぐりで使用した「昌平坂」周辺の地図を掲載します。元もと大型の地図ですが、さらに拡大撮影したものです。活字と私の鉛筆書きからなっています。坂は赤くしてあります。

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2)この昌平坂(しょうへいざか)という名は、もちろん聖堂から出ている。聖堂に孔子が祀ってある。孔子は魯の国、昌平郷に生まれた。それに因んで名付けられたのである。

 

3)これからの説明に出てくる名称を、上(北)から順に記します。

 神田明神(一番上:北。ごく一部分のみ)、湯島坂湯島聖堂、、昌平坂相生坂(あいおいざか)、神田川聖橋(ひじりばし)、昌平橋淡路坂(あわじざか)。

 湯島聖堂の上(北)は「湯島坂(鉛筆書き)ですが、横関氏は「明神坂」だとしています。聖堂の右(東)が「昌平坂」で、下(南)は「相生坂」です。、神田川の下(南)は「淡路坂(鉛筆書き)です。

 

4)聖堂は元禄4年に、上野の山王台(今の西郷さんの銅像のある付近)から、今の湯島の現地に移ってきた湯島聖堂前および聖堂脇の坂は、このとき、将軍によって「昌平坂」と命名された。だが、どの坂かははっきりしなかった。元禄9年、同16年、明和3年の大火で聖堂は消失寛政11年に立派なお堂が完成した。

 

5)完成の聖堂ができる時昔の昌平坂神田明神の鳥居からまっすぐに見通しになっていた)は拡張と同時に、その境内に囲い込まれてしまい、聖堂脇の「昌平坂」は無くなっている。ある少数の人々は、失われた昌平坂の名称を昔どおりに保存したい気持ちで、昌平坂に並行した聖堂の外の坂を、新しく昌平坂命名したのである。(地図の「昌平坂」)

 

6)しかしその時はもう、その坂は江戸の庶民によって団子坂と呼ばれていたのである。そしてその坂を昌平坂と呼ぶ者が少なかった。かえって、聖堂前、河岸通りの坂の方が立派に昌平坂という名を掌握してしまっていたのである。

 

7)いま昌平坂というのは、文京区湯島二丁目、聖堂前昌平河岸を、東へ下る坂を言う。聖橋の下から昌平橋まで続く神田川堀端の坂である(地図の相生坂)。神田川を隔てて向こう河岸の駿河台の淡路坂と並行して同方向に下る坂を言うので、相生坂と呼ばれたのである。その頃は、坂下の昌平橋相生橋と言われていた。

 

8)これは、『湯原日記』が言うとおり聖堂の下前後の坂、すなわち二つの坂のうち、その一つの昌平坂がなくなってしまえば、あとは昌平河岸の坂のほかには、昌平坂はないはずである。理屈なしに、今の昌平坂が本当の昌平坂なのである。

 

9)このほか、『江戸地名字集覧』は「昌平坂、神田宮本町」と書いている。宮本町の坂とは明神坂(みょうじんざか)のことで、湯島坂すなわち神田神社前の坂のことを指したと思うが、これも誤りであろう。『江戸名所図会』の著者は、「明治2年湯島聖堂を改めて、大学校又師範学校と号せられしにより、8月より昌平橋を改めて古名のごとく相生橋昌平坂本郷坂と改めらる」と書き、やはり同様に、湯島坂を昌平坂と考えていたのであろう。本郷坂というのは湯島坂の別名である。

 

10)これらはみな、『湯原日記』の聖堂下前後の坂を、聖堂前後の坂と考えて、聖堂の後の坂であるから、湯島坂を昌平坂としたものであろう。しかし、これは明らかに間違いである。寛政11年以後の昌平坂は聖堂の前でなければならない。

 

11)とにかく、寛政11年以後には、この昌平坂は無くなってしまったのである。そして昌平河岸の坂だけが昌平坂と呼ばれていたのである。しかるに、聖堂の絵に昌平坂があった昔の図と、その後昌平坂が境内に囲まれて無くなってしまい、新たに拡張された新聖堂の外囲の坂が、昔を知らない人には、元の昌平坂も新しい昌平坂もないのであるから、この坂を昌平坂と盲信したのである。それを知っている人でも、その方が都合が良いので、平気で昌平坂と呼んでいたのである。

 

12)文政10年の湯島一丁目の書き上げによると、昔の古い昌平坂命名前までは、昌平脇坂といった。聖堂境内拡張後の、聖堂脇の無名の坂を、その町の人々の大部分は新たに昌平坂と呼びたい気持ちはわかる。ことに当時の画家は、昔の昌平坂の構図のままで聖堂を描いて、聖堂の脇の坂に昌平坂と書き入れている。しかし、江戸の民衆の心は、これについてゆかなかった。いつか、この昌平坂は坂が急であったあったことから、平凡に「団子坂」と呼ばれてしまったのである。そして聖堂前の昌平河岸の坂だけを昌平坂と呼んでいたのである。

 

13)最近、この団子坂の頂上に「古跡昌平坂と刻した石標が建てられていることを知って驚いた。この昌平坂が一番古い昌平坂だと信じている者もいるからである。「古跡」という冠つけていることが、それを証明している。この昌平坂は、昌平坂という坂では一番遅れて昌平坂という名をつけられたものである。一番古い昌平坂と言えば、聖堂前の昌平河岸の昌平坂と、今はない「神田明神表門より見通し」の昌平坂の二つであったはずである。とにかく、現在のところの“古跡”はどう考えてもおかしい。

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 以上で、横塚氏の文章を要約したつもりですが、4つの坂の関係は何とも複雑怪奇ですね!

 最後に、坂めぐりで歩いた時の現地の写真を掲載します。

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 ↑ 昌平坂(昌平脇坂、団子坂)/ 相生坂(昌平坂

 

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        ↑ 淡路坂(相生坂)/  湯島坂(明神坂、本郷坂)」

<註>昌平坂、相生坂、湯島坂は第19回秀樹杉松坂めぐり(2018.1/1)、淡路坂は第92回秀樹杉松坂めぐり( 2018.10.14)。写真撮影は全てAtelier秀樹。

 

 <本名と別名> 

 坂名は時代とともに変遷変化するようです。結果として「別名」は生まれます。どれが「本名」で、いずれが「別名」か、ついていけない感じです。どれも、その限りでは「本名」なんでしょうか。因みに、坂学会坂リストによる別名を記します。

 昌平坂……… 別名:昌平脇坂、団子坂

 相生坂……… 別名:昌平坂

 湯島坂……… 別名:明神坂、本郷坂

 淡路坂……… 別名:相生坂、一口(いもあらい)坂、大坂

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『秀樹杉松』101巻2759号 2018-12-27/hideki-sansho.hatenablog.com #399