秀樹杉松

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<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(10)三年坂にまつわる俗信

 

 今回は「三年坂」を取り上げますが、とっても面白い内容です。横関氏の文章と、私が坂めぐりで撮影した写真と、<編注>とを、織り交ぜて紹介します。

 今回は、横関氏の本にある6つの「三年坂」を、秀樹杉松坂めぐりの記録や写真に当たって、一つ一つ念入りに調べました。その結果、今では「蛍坂」「地蔵坂」と呼ばれているものがあるのに気づきました。この二つの坂の別名が「三年坂」です。初めて、“坂研究まねごと”が形となって現れました。/ Atelier秀樹

 

 三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヶ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこから見える坂である。三年坂はときどき三念坂とも書く。

 昔、この坂で転んだ者は三年のうちに死ぬ、という馬鹿らしい迷信があった。お寺の境内で転んだ者は、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土を舐める真似をすればよいが、それをしないと三年のうちに死ぬのだと聞かされた。坂は転びやすい場所であるので、お寺のそばの坂は特に用心された。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、周辺が静粛で気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言った。

 

三年坂の現在の姿を探してみよう

 

台東区初音町(谷中3丁目)=蛍坂

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 ↑ 蛍坂 (別名三年坂第26回秀樹杉松坂めぐり(2018.2.6)  写真:Atelier秀樹 

 台東区初音町四丁目に三年坂がある。七面坂と三埼坂(さんざきざか)の中間にあるので中坂とも言った。この坂下一帯の窪地は蛍沢といって、江戸時代の蛍の名所であった。そこで、この坂のもう一つの名を「蛍坂」とも呼んだ。

<編注>

 この文章を手掛かりに調べたら「初音町の三年坂」は、いまの「谷中3丁目の蛍坂」であることが判明しました。「蛍坂」は七面坂と三埼坂の中間にあり、坂学会リストによれば、「蛍坂」の別名が「中坂」「三年坂」となっています。

  

築土(つくど)(新宿区津久戸町

 次は築土(つくど)三年坂であるが、新宿区神楽坂三丁目と上宮比町から津久戸町に下る坂である。

 

牛込矢来町(新宿区天神町、矢来町)=地蔵坂

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↑ 地蔵坂 (別名三年坂第11回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.9) 写真:Atelier秀樹

 牛込矢来下の交番のところの坂も三年坂といった。交番の前を榎町の方へ下って行く小さな坂である。明治19年頃の参謀本部五千分の一図には「三年坂」と記してある。現在はこの坂のそばには、寺らしいものも見当たらない。『東京地理沿革誌』には「天神町東榎町との間を南へ下る坂を地蔵坂と云ふ。仏寺あり。」と書いてある。この地蔵坂は三年坂の別名で、地蔵坂という名前が、すでに、この付近にあったことを物語っているようである。

 <編注>

 坂学会リストでは反対に、「地蔵坂」の別名が「三年坂」となっています。結局、三年坂=地蔵坂ですね。

 

市ヶ谷見附(新宿区五番町)

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 三年坂(別名三念寺坂第89回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.7)  写真:Atelier秀樹

 市ヶ谷見附内(いま、五番町)の三年坂にも現在は寺は見当たらない。江戸切絵図には「この坂の西側に高木氏、平野氏の屋敷が見え、両屋敷辺が薬王山三念寺の旧地にあたる。市ヶ谷御門内のこの坂を、初めは三念寺坂、三念坂と書いたと思うが、ここに寺がなくなると、他の「さんねんざか」同様、三年坂と書くようになった。大同三年に開かれた坂だから「三年坂」だとの説もあるが、江戸っ子には考えられない。

 三念寺のそばの坂を三念寺坂と書き、それが三念坂となり、三年坂と変化したことは理屈に合っている。しかし三念寺坂が三年坂となったのは、市ヶ谷見附内の三年坂だけのことで、そう都合よく三念寺がいくつもあるわけはない。

 

麻布飯倉(港区麻布台1丁目)

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 ↑ 三年坂 (別名三念坂) 第3回秀樹杉松坂めぐり(2017.1125) / 写真:Atelier秀樹

 次は、麻布飯倉六丁目から麻布我善坊町へ下る三年坂である。坂下の窪地一帯は昔の我善坊谷で、二代将軍秀忠の夫人の荼毘所があった。その時の仮堂を龕善堂(がんぜんどう)と行ったことから、その地の通称が、がぜん坊谷となったとか。

 

千代田区霞が関 

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 三年坂(別名鶯坂第73回秀樹杉松坂めぐり(2018.8.22)  写真:Atelier秀樹 

最後の三年坂は、千代田区霞が関3丁目一番と二番の境、文部省の北脇を西方向に登る坂である。寺院や墓地などとは、縁もゆかりもないようなところに思われる。しかし、明治5年にこの付近の町名を三年町にしたのは、ここに昔から有名な三年坂があったがためにほかならない。ここに三年坂があるからには、昔この付近に寺院か、その墓地がなければならないはずである。

 江戸絵図を見ても、大名屋敷はぎっしり並んでいて、この付近には「三年坂」を除いたら、寺院にゆかりの名さえも見当たらない。

 しかし、徳川家康の入国以前の状態を調べてみると、意外にもこの辺の高台は、大きな寺院や墓地でふさがっていたようである。現在の皇居内の吹上御苑も、その頃は局沢といって、大きなお寺が16箇所もあったと伝えられる。とにかく霞が関付近、とくに溜池台地は、いろいろと有名寺院があったことは事実である。

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<俗信> 

 要するに、三年坂の坂名因由は、極めて平凡な、「この坂で転ぶ者は三年のうちに死ぬ」という俗信からきたものである。

 三年坂という名称は不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。例えば、三年坂が産寧坂とか三延坂三念坂などと。それから「三年坂」を嫌って鶯坂、蛍坂、淡路坂、地蔵坂のように、全く別の名に改められたものもある。

 こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残している。

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『秀樹杉松』102巻2761号 2018-12-29/hideki-sansho.hatenablog.com #401