平成31年の幕開けです。新しい年が良い年となるよう願っています。新年の書き初めは「坂研究のまねごと」(13) 鍋割坂となりました。坂研究者の横関英一氏とその名著『江戸の坂 東京の坂』のPRの気持ちも込めて、私の“坂研究”メモを公開しています。昨年の「坂めぐり」の写真も、所々に掲載していますので、どうぞ今年もお読みいただければ、ありがたく思っております。 / Atelier秀樹
江戸時代に、鍋割坂という坂があった。現在東京都内に三つ残っている。
昔この坂で、鍋を割った者があって、鍋割り坂といったのだと書いた人もあるが、単に鍋一つをを割ったという行為が、他のいくつもの坂の名に、真似られるなどということは、到底考えられない。坂と限らず、他の、鍋を割りそうにもないところに、鍋割という名をつけたものがたくさんある。鍋割山、鍋割峠、鍋割岩などである。
この鍋割には、何か別な意味がなければならないと思う。多くの鍋割坂に共通した何かがあって良いと思う。ナベワリという草のことではないかと、初めは思った。今日、東京の鍋割坂という呼ぶ坂のあるところは、江戸時代の薬園のあったところである。ナベワリの実は有毒であることから、何かの薬草として栽培されたものであって、そんな草の生えているところの坂を、なべわり坂といったのではないかと思ったりした。
鍋割坂は坂の形(鍋を割った形、小山を横断する切通し型)から
しかし、全然そんな意味ではなく、坂の形からきた名称であることを知った。鍋割坂という坂は、みな等しく小山を横断する坂であって、なべわりは鍋を割ったのではなく、鍋を割った形なのである。この鍋とは、古い昔の土鍋の形である。鍋を逆さにしたような小山を割いて通ずる、切通し型の坂路を鍋割坂といったのである。この鍋の形は、今日の擂鉢と同じような形で、なべ山だの、擂鉢山だのというのが、この鍋を逆さにした形の山なのである。
富士山の形は、塩尻
平安朝時代には、富士山の形を「塩尻」と言っている。塩尻とは塩田の砂に海水を入れて、これを太陽に干すと水が蒸発して、塩が結晶する。それを集めて盛り上げたものを塩尻と言ったその黒い砂の山形に、真っ白い塩がかぶさっていて、まるで富士山の頂上に雪が積もっているような感じがする。
鍋の形、擂鉢の形
富士山の形は、鍋、擂鉢
その後江戸の初期になると、今度は富士山の形を鍋にたとえるようになる。時代的に富士山の形容を考えてみると、初めは塩尻の形といい、次には鍋を逆さにした形といい、続いて擂鉢の形であるということである。こんなことからも、鍋割坂の意味は想像がつく。鍋割山などという山があって、その頂上が二つに割れている事実から考えても、鍋割坂は小山を二つに割っている坂を意味し、そてほどの深い割り方ではないとしても、とにかく小山の頂上を切通に割った形をしている坂に、名付けられたものである。
江戸時代から鍋割坂として知られている坂は、次の4箇所である。(ただし、この中の一つは、大名屋敷庭園内の坂であったので、今はない)。いずれも小山を横断する坂途であった。
(1) 鍋割坂(新宿牛込矢来町。旧酒井亭内の坂。記録のみで今は無い坂)
(2) 鍋割坂(千代田区麹町一番町と富士見町一丁目との境の坂)(今の九段南二丁目)
一番町の通りから、土手一番町の小山を切通型に、西から南へ上り、千鳥ヶ淵の方へ下る坂で、代表的な鍋割の形をしている。坂路の両側が石崖になっていて、もと小山であったところを掘削して、つくった坂であることを証明している。
第90回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.10)/ 写真撮影:Atelier秀樹
(3) 鍋割坂(文京区のお植物園内の公孫樹の辺、昔のお薬園坂坂の道筋で、植物園を南北に通ずる坂路であった)
(4) 鍋割坂(千代田区麹町隼町=今の隼町。現在は国立劇場の北脇)
やはりここの小山を横断した切通し型の坂である。東の坂下は、半蔵門に近いところのお堀である。
↑ 鍋割坂(千代田区隼町)
第90回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.10)/ 写真撮影:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』102巻2764号 2019-1-1/hideki-sansho.hatenablog.com #404