今回は(24)江戸の念仏坂二つ です。なお、(24) は原著にはありません。原著の中からセレクトして本ブログに投稿していますが、その通し番号にすぎません。例によって、「秀樹杉松坂めぐり」の写真を添えました。<編注>も含め、お読みください。 / Atelier秀樹
念仏坂という坂が、江戸時代からある。新宿区住吉町から市谷仲之町へ登る石段の急坂である。ずっと昔は石段の坂ではなくて、土留めされた急峻な土坂であったと思う。念仏坂の坂名起因としては、次の三つの場合が考えられる。
1 坂のそばに老僧が居住して、昼夜念仏を唱えていた。
2 坂は谷に富み、屈曲して急峻のため、往来の人が念仏を唱えつつ、坂を上り下りした。
3 坂の付近に安養寺という浄土宗のお寺があった。
しかし、現在の念仏坂は、東京にある唯一の実在する念仏坂であるので、右三つの理由は、この念仏坂に限るの説明であって、他の念仏坂に利用できるかどうか、疑わしい。江戸の念仏坂の説明は、右三つになるが、もし江戸以外に念仏坂があれば、ぜひそれらについても調べてみる必要がある。私の知っている念仏坂といえば、近いところで、神奈川県に一つ、それから昔の江戸の麹町に一つあったということだけである。
(神奈川県足柄下郡石橋村…略)
天保元年ころの『江戸独案内』の坂の部のところを見ると、麹町に念仏坂があったということを、教えている。
かうじ丁(麹町)
かい坂(貝坂)
紀尾井坂
念仏坂
今日実在する坂名は、右のうち、貝坂、紀尾井坂、清水坂も三つで、清水坂はのちの紀尾井坂の古名であるとするもので、それは同一の坂であるということになる。(『江戸名勝志』)。
清水坂は、それとは別な坂であるとしているものもある。(『麹町略誌稿』)。(略)尾州家と紀伊家の間の坂は、清水坂ではなくて、紀尾井坂であるというのである。そして、清水坂は、尾州公の表門前から清水谷へ下る坂というのである。今日の紀尾井町と麹町五丁目境の坂路、すなわち清水谷から上智大学の東側の坂を、新宿通りへ出る道筋をいうことになる。この坂は、今日でもかなり急なところがあって、昔は険しい坂であったようである。
そこで、前述の『江戸独案内』において、紀尾井坂と清水坂との二つの坂に挟まって記されている念仏坂は、どんな意味を持つのであろうか。これら三つの坂は独立した三つの坂なのであろうか。紀尾井坂が元禄のの頃にできた坂名であるとすれば(大日本地名辞書)、清水坂は元禄以前に、この坂に名付けられたものと考えられる。そして念仏坂は、そのまた別名であったことも考えられないこともない。(略)
そんなことで、麹町の念仏坂というのは、古い坂のようであり、しかもよほど急峻な坂であったように思われる。これがはっきりすると、江戸の念仏坂は二つあったということになる。
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<編注>
①坂学会「坂のプロフィール」に拠って、念仏坂(新宿区)、貝塚、紀尾井坂、清水谷坂の4坂について、「秀樹杉松坂めぐり」の写真を掲載します。
②今の「清水谷坂」と、上記『江戸独案内』の「清水坂」は同じ坂のようです。『江戸の坂東京の坂』巻末』掲載の「江戸坂名集録および索引」には、次のようにあります。
→ 清水坂 [シタン坂の別名]
シタン坂 千代田区麹町4丁目と紀尾井町の境を西南方へ下る坂。坂下は清水谷で、ここからさらに西南へ下る坂は紀尾井坂である。清水谷坂とも。
③坂学会「坂プロフィール」には、次のように出ています。
「清水谷坂」(別名:シダニ坂、シタン坂)
千代田区麹町4丁目と紀尾井町の間。坂の途中に、千代田区が設置した標識がある。
→「この坂を清水谷坂といいます。元禄四年(1691)の地図をみると,麹町通りから直接下る坂のようにみえますが,それ以後の地図は現在形とほぼ合っているようです。別の名をシダニ坂とも シタン坂ともいわれるようですが,いずれも「清水谷」が変化したものとされています。坂下を南北に走る道筋が 清水谷 で,そこで食違見附へと登る 紀尾井坂 につながっています。」
ここは清水谷と呼ばれるため 清水谷坂の名で呼ばれる。 (標識より)
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念仏坂(新宿区)
↑ 第84回秀樹杉松坂めぐり(2018.9.28 写真 :Atelier秀樹)
貝坂
↑ 第89回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.7 写真 :Atelier秀樹)
紀尾井坂
↑ 第10回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.8 写真 :Atelier秀樹)
清水谷坂(清水坂)
↑ 第84回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.8 写真 :Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』103巻2781号 2019-1-19/hideki-sansho.hatenablog.com #421