今日のテーマは「やかん坂」です。どんな坂のことでしょうか、横関氏の解説は面白い内容です。お読みください。「秀樹杉松坂めぐり」の写真も添えました。 / Atelier秀樹
江戸には、やかん坂が三つか四つあった。やかんは、薬罐、ヤカン、やかん、野干などと書く。江戸の坂の名前としては、薬罐坂と書いたものが一番多い。薬罐は、薬を煮るのに使った湯沸しのことである。しかし、その頃の薬罐は、磨くとピカピカ赤く光る銅薬罐のことである。
今東京には、江戸時代のやかん坂は、次の四つがある。
1 薬罐坂
新宿区若葉一丁目の国電のトンネル入り口に近いところへ、下の谷から上って行く小さな坂であったが、今はない。古い昔、雨後晴天の時には、坂の野草が洗い落とされて、坂一面の赤土が、朝日に映じて銅薬罐色に輝いていたという。もう一つは、この坂下に薬罐職人が住んでいたということである。
2 薬罐坂
『豊多摩郡誌』にいう荻窪字本村というのは、今の杉並区上荻二丁目に当たる。雨の後などに、やかんが坂に転がり出てきたというのである。これは薬罐を化け物の仕業としているのである。狐がやったと考えてのことであろう。
3 やかん坂
文京区目白台二、三丁目の坂で、『若葉の梢』によると、薬罐、野干、射干とも書いたとしている。墓地のように気味の悪い寂しさを強調し、そんなところに薬罐の化け物が転げ出たと説明している。
4 ヤカン坂
文京区小日向一丁目十番の生西寺北脇の坂である。これの説明されたものを見たことはないが、切絵図には、ヤカンサカと記してあり、周囲を考えてみるとやはり生西寺のそばであり、俗に「山中」と言われたところで、切支丹屋敷のほうから久世山へ行く道で、坂の両側に樹木がうっそうとしていて、昔はたぶん、気味の悪い場所であったように想像される。
右四つの坂から分類してみると、やかん坂の説明は左の五つに収録することができる。
A 雨後晴天の坂道が、銅薬罐のように赤く輝いていた。
B 坂下に薬罐を作る職人が住んでいた。
C 雨の夜などに坂道に薬罐の化け物が転がり出たものであろう。
D 坂に薬罐の化け物が転がり出たが、それは野干すなわち狐が化けたものであろう。
E 幽霊坂と間違えられるような気味の悪い坂みちであった。
雨後の坂みちが、銅薬罐のように輝いていたとか、薬罐の化け物が転がり出たとかいうのは、ちょっと真実性に乏しくて、一概に信じられない。薬罐職人が住んでいたということも、一箇所だけならそれもよいが、やかん坂のすべてに薬罐職人の住居があったということには抵抗がある。
とにかくみんな、お化けの出るような、薄気味悪い寂しい場所なのだから、この職人住居説も、すべての薬罐坂に当てはまるとは考えられない。このやかん坂が野干坂であって、狐坂と同一の坂であるということには賛成である。そして幽霊坂のように寂しいところということも考えられる。
地方では、野干坂にきつねざかと仮名を振っている。『一挙博覧』という本には、「薬罐はきつねの事なり」と書いてある。『言海』なども野干を狐の異名としている。それから、ハゲ頭のことを薬罐頭といった。
安永六年(1777)ころの流行語に、そのころの美人、笠森おせんが欠落(かけおち)して、茶店におせんの代わりとして老爺が出ていたので、世間では「とんだ茶釜が薬罐に化けた」といって騒いだものであった。茶釜は美人を意味し、薬罐は、はげ頭の老爺のことをいったのである。
薬罐は、そのころの流行語であったから、本当は野干であるべきを、薬罐と書いて、銅薬罐を化け物に仕立てたのではないだろうか。狐坂では平凡なので、野干坂と書くべきところを、流行語を使って、薬罐坂と書いたのではないだろうか。だから、幽霊坂と同じような寂しいところの坂は、皆、やかん坂といったのであろう。
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薬罐坂 杉並区上荻2丁目
↑ 第49回秀樹杉松坂めぐり(2018.5.13 写真:Atelier秀樹)
薬罐坂(夜寒坂)文京区2、3丁目
↑ 第13回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.13 写真:Atelier秀樹)
薬罐坂 文京区小日向1丁目
↑ 第29回秀樹杉松坂めぐり(2018.2.13 写真:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』103巻2784号 2019-1-22/hideki-sansho.hatenablog.com #424