秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

橋下徹『沖縄問題、解決策はこれだ!』を読む(3)「この沖縄の歴史を見れば、本土は恐縮するはず」

 

著者の橋下氏が強調する「沖縄の歴史」の登場です。私のこれまでの知識・認識は浅かったことに気づきました。著者の本文に即した引用に心がけています。お読みください。/ Atelier秀樹

 

大坂なおみ選手全豪オープンで優勝。昨年の全米オープンに続いての制覇。おめでとう。 

f:id:hideki-sansho:20190127101916j:plain

        今朝の朝日新聞1面トップの写真を、私が撮影したものです。

 

 琉球はかつて、海洋上の地の利を活かし、中国に対しては貢物を納め服従を誓い、中国の皇帝から琉球国王として認めてもらう関係を築き、同時に、貿易を許される「冊封体制」の中にあって、大陸や日本、東南アジアにも交易の輪を広げ、アジアの一大中継貿易地として繁栄している王国でした。

 

 こうした冊封体制という外交のかたちは、1609年(慶長14年)、薩摩藩の侵攻から変化が生じ始めます。貿易利権の独占をねらった島津藩琉球征伐」に踏み切ったのです(当時は徳川幕府鎖国政策が始まっていませんでした)。薩摩藩に敗れた琉球は王国の体制のまま、日本の「幕藩体制」に組み込まれ、中国との「冊封体制」との共存を図る板挟みの状態になったのだといえます。

 

 黒船で来航し、江戸幕府に開国を迫ったアメリカのペリーも、浦賀入港の1ヶ月ちょっと前に琉球に上陸しています。イギリスを始めとするヨーロッパ列強の動きもさることながら、中国の動きを特に牽制するアメリカにとって、日本と中国の狭間で揺れ動く琉球という国が地政学上の要所と考えられていたことが、アメリ海軍省が刊行した『日本遠征記』からも窺い知れます(太平洋戦争時の沖縄が日米間の主戦場となったことも、必然の成り行きだったといえるでしょう)。

 

 明治新政府樹立後、西洋列強との外交的立場も見据え、日本は中国(清)との争いをできる限り避けようとしました。廃藩置県にあっても、琉球を「藩」として残し、為政者を、琉球の独立性を示す「藩王」として据えたのです。これは、中国との冊封体制を完全には解消せず、曖昧にでも、そうした外交関係を残すことは一時は考えたようです。

 

 しかし、1875年(明治7年)、琉球船の台湾遭難事件(台湾に漂着した琉球人の乗組員54名が地元民に殺害された)をきっかけに、冊封体制の急転換を琉球藩は新政府から迫られることになります。どういうことかというと、本事件を受けて明治新政府は中国(清国)に対して「琉球人は日本人である」という立場を明確にした抗議を行い、台湾の当犯罪者を取り締まるよう要求したのです。これに対し清国政府は、台湾で起きたこの事件を「化外の地」(統治管轄外の地)の出来事だと反論。1874年、明治新政府は台湾に出兵し、最終的にはイギリスの調停により、清国が日本に賠償金を支払う形で決着を見ます。

 

 このなかで琉球人を「日本国属民」と表現することを認めています。そして台湾出兵の翌年である1875年、明治政府は琉球に対し清国との間における冊封朝貢の廃止を通達、清国との関係断絶を求めたのです。これに対し、琉球は清国との関係の存続を訴え抗議しますが、日本政府は1789年に「琉球藩」を廃止し、沖縄県を設置するに至ります。

 

 先の大田司令官のメッセージに加えて、このような薩摩による琉球征伐、明治新政府の「琉球処分という歴史を見れば、現在の我々本土の人間は、沖縄に対して恐縮し、特別の配慮を持つ必要があることは明らかです。

 

『秀樹杉松』103巻2790号 2019.1.28/ hideki-sansho.hatenablog.com #430