秀樹杉松

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福山英樹の半生(6)【完】 さらば戦争、平和・民主主義の到来、美しい故郷の山河、山への回帰

 

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(写真撮影:Atelier秀樹)

 

福山英樹の半生」の第6回(最終編)をお届けします。よろしかったらお読みください。 / Atelier秀樹

              

<戦争の時代>

 どんな人でも、生まれ育った地域や時代環境に大きな影響を受けるだろう。また、誰しも自分の幸せを求めるのは当たり前として、それだけでなく、その時代における己の使命にも思いを馳せる。「時代の宿命」とでもいうものだろうか。

 英樹が5歳のときにあの「太平洋戦争」が勃発し、国民学校3年生の夏に終戦(敗戦)した。世の中全体が戦争一色の時代に育ったのである。校庭にサツマイモやカボチャを植えたり、山菜狩りもした。軍艦が沈まないようにと、戦地に送る杉の葉集めをした。グライダーを作って飛ばしたりもした。

 

 学校の教科書・授業は勉強そっちのけの戦争教育そのもので、来る日もくる日も

「兵隊さんの為」「兵隊さんのお陰」「天皇陛下の御為」「大東亜建設」「鬼畜米英撃滅」であった。

 

 戦争末期になると、軍隊招集が拡大し、それまで元気で働いていた集落の若者が「赤紙」一枚で戦地にかり出され、しばらくすると遺骨となって悲しい帰還をした「死んで帰れ!」と励まされて兵隊に行ったのである。生きて帰るわけにはいかなかった。しかし、親が本当に出征する我が子に、兄弟姉妹が本当に我が兄弟に「死んで帰れ」と願ったのか。いやそんな筈は絶対にない。国民皆が心では泣いて見送ったのである。

 

 葬式やお盆に墓所に行ってみると、墓石に刻まれた俗名の上に「陸軍上等兵」「陸軍曹長」など ”兵隊の位” が記されていた。遺骨で帰ったといっても、遺族が中を見たら紙切れ一枚が入っていただけだったという。軍歌「海行かば」の通り、海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」で、文字通り戦陣の華と散ったのだから、遺骨や遺髪が入っている筈もない。

 

 戦争の時代は、明らかに”狂った時代”であった。”戦争を知らない世代” にはとても想像できない、暗黒の時代であった.

 

< さらば戦争 / 平和・民主主義の到来>

 昭和20年8月15日。日本国民はもとよりアジア諸国をも苦しめ、数多の犠牲者、国土破壊をもたらした末に、やっと太平洋戦争が終戦(敗戦)した。戦争から平和へ、天皇主権から国民主権へ、封建主義から民主主義へと、時代が180度急転換した。

 

 一転して学校の授業も、平和・民主教育が中心に据えられた。毎日校庭で飛ばしたグライダーは焼却し、教科書の大部分は墨で消した。何しろ、価値観・教育目標・世の中が、一瞬にして裏返しになったのだからたまらない。

 

 国民学校が小学校と改称され、義務教育が6年(小学校)・3年(新制中学校)の9年制となり、それに3年(新制高校)・4年(新制大学が続き、学校制度が大きく改革された。

 英樹は小学校の前半を戦争教育、後半を平和・民主教育の洗礼をうけた。子供だったので、頭の切り替えもすぐ出来たように記憶している。この両時代に遭遇したのは、裏と表、マイナスとプラス、の両方を身をもって体験したことになる。

 

 軍国主義・戦争教育から平和・民主教育へ> 

 それだけに、平和の有難さ・尊さ、そして民主主義の大切さを心から実感した。だから自然に、戦争を繰り返してはいけない、平和を守らねば、と強く考えるようになり、いわば反戦・平和・民主主義」を生涯の指針にしようと決意したのである。英樹にとって、これが「時代の宿命」となった。

 

 学生運動・60年安保闘争> 

 この歴史的な時代に生きた人間として、学生運動や60年安保闘争に積極的、主体的に参加した。就職も高い理想を掲げた国の機関を選択した。英樹は国家公務員として仕事に精を出したが、定年退職後に思いもしなかった「叙勲」を受けた。

 

<美しい故郷の山河・自然>

 石川啄木は「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだ。英樹が学んだ高校の校歌は、「秀麗高き岩手山 清流長き北上や 山河自然の化を享けて」とうたわれる。生まれ育った近くには、“夫婦峰”と呼ばれる「折爪岳」「名久井岳」も望まれた。

 

<山への回帰>

 山村に生まれ育った英樹は、大人になってからも「登山」には関心がなかったが、不思議なことに、40歳頃から山歩きを始めた。単独山行だったが、山の魅力に取り憑かれ、20年間登山を続けた。高尾、陣馬、奥武蔵、大山、箱根山などから始まり、奥多摩、丹沢、奥秩父、大菩薩、八ヶ岳などへ日帰り中心の山歩きを重ねた。

 

 日本アルプス

 だいぶ後になってから山小屋泊まりもするようになった。そして最後には、ついに日本アルプスに足が向いた。

 中央アルプス剣岳(2931)を皮切りに、南アルプスへの挑戦が始まり、鳳凰三山薬師岳2780・観音岳2840・地蔵岳2764)、甲斐駒ケ岳2966)、仙丈ケ岳(3033)、北岳(3193)の登頂を実現した。初の3千m峰:仙丈ヶ岳と、富士山に次ぐ日本第二の高峰・北岳への登山がかなった時は、感動の涙を流した。

 

北アルプス

 南アルプスの次は(当然の如く)北アルプスに目がいった。燕岳(2763)、槍ヶ岳(3179)、西穂高岳(2909)に続いて、白馬岳(2932)、立山(3033)、剣岳(2998)、奥大日岳(2611)、木曽御岳(3067)などへ次々に登山した。

 

 行きたいと思いながら実現していない山に、誰でも真っ先に登りたがる富士山奥穂高岳などがある。若い頃は登山を敬遠していたが、結局は山村出身の英樹は、山から逃れることなく、約20年間だけではあったが、山歩き・登山に親しんだ

 

<わが人生>

 昔は陸奥国に属し、古くは朝廷に、戊辰戦争では薩長に蔑まれ侵略されたが、傑出した人材は豊富に出ている。その東北に生まれ、美しい故郷の山河自然に育まれて、高校3年まで故郷の地で過ごした。上京後の生活を含めて、福山英樹は幸せな人生を送っている

 それにしても、「戦争」と「イズナ事件」だけは、生涯忘れることはないだろう

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『秀樹杉松』109巻2919号 2019.8.29/ hideki-sansho.hatenablog.com #559