○ショパン(Chopin 1810~1849)とシューマン(Schumann 1810~1856)は、ともに1810年生まれなので、私は「ショパンとシューマンは天才(1810)」と覚えています。
○1797年生まれのシューベルトは「泣くな(1797)シューベルト」、1756生まれのモーツァルトは「人和む(1756)モーツァルト」と覚えています。(作曲家の名前を生年に絡めて記憶)
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◉ショパン(Chopin 1810~1849)
○ポーランド出身の、前期ロマン派を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ協奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。
○ピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていった。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。
~「ウィキペディア」より
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○ワルシャワ音楽院でJ.エルスネルに学び、ピアニスト、作曲家として成功し、1830年ウィーンに演奏旅行。その直後ワルシャワに独立運動が起こったため、帰国せずにパリに出た。以後もっぱらフランスを中心に活躍。
○ロマン派音楽におけるサロン風ピアノ作品に新しい境地を開拓して、<ピアノの詩人>と呼ばれる。女流作家ジョルジュ・サンドとの交際は有名。2曲の協奏曲を含む管弦楽付きのピアノ曲と数曲の室内音楽作品の大部分はポーランド時代のもので、パリに来てからは圧倒的にピアノ曲が多く、また傑作もその中に含まれる。ほかに、生涯にわたって作曲した歌曲が残されている。
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○ロマン派音楽の推進者。文学、哲学に心酔したが、20歳の時にパガニーニの演奏に感激してピアニストを志し、F.ヴィークに師事した。指を痛めたため、以後作曲および評論によって新しいロマンティックな芸術を開拓。1840年ヴィークの娘クラーラと結婚。ピアノ音楽に文学的標題を与え、歌曲においては詩との合一をめざしたほか、室内楽曲、交響曲などあらゆる分野の作品を残す。
~「クラシック音楽作品名辞典(井上和男編、三省堂、2009)」による。
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○ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。
○指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。ヴィークの娘でピアニストのクララとの恋愛と結婚は、シューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行う。
○このころから精神障害の症状に悩まされるようになる。1850年に指揮者としても活動する。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。1853年にヨハネス・ブラームスと出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図る。救助されたシューマンはボン近郊の療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した。
~「ウィキペディア」による
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文・写真=Atelier秀樹
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『秀樹杉松』137巻4064号 2023.1.27/hideki-sansho.hatenablog.com #1104