親川記:東京の川歩き (24)
日本橋川 (1) (2013年6月7日) / Atelier秀樹
なにしろ、日本橋自体が高速道路に覆われている。バカげたことをやったものだ。まさに車と道路を優先する社会・時代の象徴だ。取っ払って貰いたいものだ。平成18年に「日本橋に空を取り戻す会」(日本橋みち会議)が、首都高速道路を地下に移設して周辺を親水公園に造り変えるとの構想をまとめたそうだ。石原都知事(当時)は反対し「日本橋の方を移転させるべし」と主張しているとか。
もちろん、大いなる歴史がある。古くは神田川も日本橋川も存在しなかった。有ったのは「平川」「道三堀」「皇居外堀」。神田川の元の名は意外にも「平川」といい日比谷入江に直接流れ込んでいた。家康は神田山を削り、日比谷入江を埋め立てて町を拡張する一方、江戸城と江戸湊をつなぐ「道三堀」(江戸初の人工水路。南方にあった幕府侍医・曲直瀬道三家の屋敷に因む)を開削した。そして、平川を道三堀・外壕に繋ぎ替えた。明治以後に、道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通)が埋め立てられた結果、残った流路が現在の日本橋川だという。
<日本橋歩き>
スタディはこれ位にして、日本橋川歩きを始めよう。JR水道橋駅で下車。線路に沿うように、直ぐ北を神田川が西から東へ流れている。先ず、神田川に架かる水道橋(白山通)・後楽橋(専大通)・小石川橋の順に、東から西へ川を遡ってカメラに収める。水道橋は多くの人で賑わい、後楽橋は外堀通をはさんで「東京ドーム」。東京ドームホテルがそびえ立っている。小石川橋のすぐ東(下流)から、ほぼ直角に分流して南に向けて、日本橋川が流れ始める。小石川から日本橋の流れ行く方向には、最初の橋「三崎橋」とJRの線橋が見える。
いよいよ日本橋川のスタート。最初の三崎橋は、欄干が緑がかった青銅色で目立つ。流れの水量はたっぷり。すぐ、JR小石川通架道橋、次いで新三崎橋。上に目をやれば高速道路に覆われ、太い円柱の支柱が流れに突き刺さっている感じ。自然に親しみながらの川歩きにはほど遠い。なんとも無念。ただし、緑道は整備されているのが救い。あいあい橋。12年前の架橋のようだが、何故あいあい?。新川橋。東京理科大学発祥の地の記念碑。堀留橋。南堀留橋。
次の橋は「俎橋」(靖国通)。ウオーキングやっていた頃、歩行距離認定申請のために歩いて渡った橋だ。俎(まないた)の字は確か××だと思っていたら、靖国通に設置されている道路標の漢字は「人」重ねになっており、ネットを検索しても同じ。漢和辞典を調べたら「俎」だ。現に「まないた」を変換すると、このように「俎板」と出てくる。辞典の注記に「参考:×重ねは俗字」とある。なるほど、小生は俗字で覚えていたか。もっとも、“俗字”の方が常用されているケースがあったようにも記憶している。
閑話休題。辞典には、「人」重ねは肉の形、且は祭りのときに肉を入れる皿、とある。別の国語辞典では、俎板(まないた)は真魚(まな=食用の魚)を料理する板、とある。それにしても、撮ってきた写真を見たら、なんと「まないたばし」。橋名は漢字と平仮名で二カ所に表示されているので、なるたけ漢字名を写すようにしているが、特徴ある橋名の場合は両方を、何かの事情で平仮名表記だけを撮る場合もある。今回はどうだったか?道路を渡らなければ漢字名は撮れなかったのかも。珍しく道路標をカメラに収めたが、その際に「あれ?、×ではなく人になっている、おかしいな」と一瞬感じたのを覚えている。
とんだ川歩記になってしまったが、ある意味、これが川歩きの醍醐味である。宝田橋。共立女子学園。
雉子橋(きじばし)。橋名の由来が書かれた掲示板がある。
⇨「この橋は雉子橋といいます」。(以下古書からの引用)「から国の帝王より日本へ勅使わたり、数万人の唐人江戸へ来たり、これらをもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給ふ。この流のみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ。その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋と名づけたり」。「江戸城本丸に近いため警備も厳しかったといわれます。“雉子橋でけんもほろろに叱られる”。警衛の番士の厳しさと雉子のけんけんと鳴く声をかけた意図といわれています」。
やはり、川に歴史あり、橋にも歴史あり。
30メートルしか離れていない皇居清水濠の側に出かけてパチリ。一ツ橋(白山通)。大正14年11月竣功とある。内堀通り覗く。一橋徳川家屋敷跡。錦橋(明大通)。神田橋(本郷通)。鎌倉橋(外堀通)。鎌倉河岸跡の掲示板(千代田区教育委員会)。時代小説によくでてくる橋と河岸だ。立派な川だが、高速道路とその支柱が流れを壊している。江戸開府4百年記念碑「神田鎌倉町・鎌倉河岸」が、地図と解説入りで建っている。東京都千代田合同庁舎。「龍閑橋」交差点。鎌倉河岸や龍閑橋も、しばしば小説に登場する。JR線橋(神田駅と東京駅の中間)。
新常盤橋(江戸通)。外堀通と江戸通の交差点付近は人で混雑。澁澤栄一銅像。旧常盤橋跡(工事中)。常盤橋。常盤橋小公園。
一石橋。「一石橋迷子しらせ石標」(都教育委員会)の石碑。説明文によれば、安政4年(1857)西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。銘文は、正面「まよい子のしるべ」、右側面「しらする方」、左側面「たづぬる方」。三つの石碑の現物?が建っていたので、写真にとってきた。説明文は続く。江戸時代当時は迷子は町内が責任もって保護することになっており、湯島天神境内、浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に建っていたが、震災・戦災で破壊され、現存するのは一石橋のものだけなそうだ。
また、「一石橋の親柱」(中央区教育委員会)の写真入りの立派な掲示板が出ている。説明文によれば、一石橋は皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋(木橋)された。橋名の由来としては、北橋詰近くに後藤庄三郎(幕府金座御用)、南橋詰近くに後藤縫殿助(幕府御用呉服所)の屋敷があり、両後藤をもじって、「五斗+五斗=一石」から一石橋と名付けたという(「江戸砂子」)。なお、大正11年に鉄筋コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四本を据えた白亜の橋となった、と書かれている。
ところで、一石(いちこく)は「いっこく」とも発音するので、一石橋を“いっこくばし”と呼称することもある。いやむしろ今は、そう読む人が少なくない(多い?)ようだが、江戸検定試験の正解は「いちこくはし」だ。「はし」か「ばし」かは大したことではないが、江戸検定に挑んだ経験のある小生としては、読み方には少々拘りたい。どう読もうが通じるんだから、どっちでも良いだろうと思われそうだが。そこで、川歩きの現場に戻って、撮ってきた写真を見ることにする。
一石橋の親柱には「しはくこちい」と刻まれている。つまりはイチコクハシ。もちろん、中央区教育委員会の掲示板「一石橋の親柱」(中央区民文化財)にも、わざわざそのように振り仮名してある。ところが面白いことに、都教育委員会の「一石橋迷子しらせ石標」(都指定有形文化財)には「いっこくばし」と振り仮名されている。「いちこくはし」の掲示は平成十五年三月で、「いっこくばし」の掲示は平成二三年三月。作成時期が8年違いで、作成役所が区と都の違い。
両者の不一致は正直感心しない。五年後に作成した都教委は、前作の区教委の現物を見なかったのでしょうか。承知の上で、敢えて異なる振り仮名を施したのか。両者の連絡はあったのか、無かったのか。興味のあるところである。当時の読みを尊重するのか、現代の読みで通すのか、スタンスの相違がありそうだ。都・区とも文化財と指定している。読み方も含めて、文化財・歴史資料には厳密な対処が望まれる。地下鉄「三越前」駅。西河岸橋。
(秀樹杉松 84巻/2411号)