秀樹杉松

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白子川(2)

  親川記:東京の川歩き (27)

 白子川(2) (2013年6月9日)   /  Atelier秀樹     

 

 きのう川歩きしたのだから、普通なら今日は一休みして「川歩記」の執筆だ。まして今日は早朝から正午までシルバー就業。ところが天気も好し一気に完歩しようと、昨日に続いてきょう6月9日(日)白子川に出かけた。出かけるに先立って例によってお勉強。昨日も書いたように「白子川」はこれまで聞いたこともなかった。白子(しらこ)は東京には無い地名に思える。その疑問を抱えたまま白子川の下流を地図でよく見たら、川沿の埼玉県和光市に町名の白子(1~4丁目)がある。白子橋、白子宿通、白子小、白子変電所、白子コミュニティセンター、(バス停)白子坂上・白子坂下などもある。

 

 <白子川スタディ> 

 白子川はもともと和光市の白子地域を流れる川ではなかったのか。幾つかあった川の名前や通りの名前も、ある時期から通しの一本で統一名になったことは知っている。例えば、方南八幡通や栄町通などが「方南通」に、神田上水神田川が「神田川」に統一されたなど。もしかして白子川の上流部分(都内)は違う川名だった可能性も。いずれにせよ、白子は今の和光市の地名・町名であることは間違いない。

 ウイキペディアによれば、白子川沿いの台地には縄文期の遺跡があり、古墳時代から奈良時代にかけて帰化人が移住したらしい。「白子」と白子の西北に隣接する「新倉」も新羅(しらぎ)の転化だという。新倉は新倉1~8丁目、下新倉1~6丁目で白子(1~4丁目)より広域だ。記録によれば、758(太平宝字2)年奈良朝廷が新羅の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武藏国に移して「新羅郡」(平安期に新座郡と改名)を置いたそうだ。更に分かったことは、今の朝霞・新座・和光・志木の4市は、758年から1896年の140年間は同じ新羅(新座)郡であったという事実も知った。

 そのせいもあり、これまで市町村合併のたびに、この4市の合併統合が問題に上ったそうであるが、どういう訳か実現してないようだ。また、戦国時代には上杉と北条の「白子の戦い」があり、江戸時代は「白子宿」が栄えたそうだ。そういえば、地図に「白子宿通」がある。更に、百済の王子が住んだとされる「牛房城」(ごぼうじょう)伝説があるとか。なるほど「牛房通」もある。このように、白子川の下流の白子・新倉【元の新羅(新座)郡】は由緒ある歴史的な地域であることが分かり、きょうの川歩きの楽しさがいやが上にも増した。

 長い前段になったが、この川歩きは単なる歩きに止まらない、川の歴史と流域の歴史・文化のスタディも兼ねたものなので、以上は決して道草ではなく本道である。

 

 <白子川歩き二日目

 昨日の白子川初日のゴール「越後山橋」から歩き始めるため、石神井公園駅からバスで土支田八幡下車、北進。土支田八幡の鳥居を写す。都議会議員選挙ポスター掲示板も。間もなく八坂小・中。そして越後山橋へ。昨日までのコースと様相を異にして川沿いの道は荒れ模様。和光市立第五小。田舎の雰囲気がただよう。芝屋橋付近から川沿いの道が行き止まる。

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 大きく迂回して笹目通りの白子1-15で「一級河川白子川」の看板に出会い、草ぼうぼうの川沿いを進んだがついに完全な行き止まり。戻るのも大変なので、ちょっとした踏み台を見つけて、民家の傍らに上り着いてどうにか道路に出る。やっと小源治橋。だがさらなる迂回の連続。定義は知らないが、これが「一級河川」か?。川の長さはさほどではないのに、歩く距離はとてつもなく長いのだ!

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f:id:hideki-sansho:20170906192231j:plain 川は一路北上。天台宗松竹山観音寺。牛房コミセン(コミュニティセンター)。川が見えないので何処まで続くか通行人に訊く。まだ先のようだ。7イレブン。子安橋。橋を渡り左岸から右岸へ。ニトリの大きな建物。名前はテレビの宣伝で聞いたことがあるが、今ネットで調べたら「住まいのトータルコーディネートをサポートする家具・インテリアショップ」とある。「ここから練馬区」の道標。練馬区旭町3丁目だ。国道・川越街道・白子川が交差点でやっと川に再会。久しぶりの街の賑わいをみせる。先ずは手前が新東崎橋。直ぐに東崎橋。

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 ここから川沿いの道が復活、しかも整備された遊歩道だ。やっと水流と親しめる。「白子橋」。この辺りが白子のメインのようだ。白子宿通・白子坂など白子一色。白子橋の欄干に、橋名と川名の表示に隣接して、清水かつら作詞・弘田竜太郎作曲の「くつが鳴る」の立派な歌碑がある。子供連れの人に訊いたら「作詞者の清水かつらがこの辺に住んでいたから」と教えてくれた。幼少の頃歌い親しんだ唱歌なので夢中でパチリ。

 場所は白子2丁目。橋を過ぎたら直ぐに「武蔵野を愛した童謡詩人・清水かつら生誕百年記念碑」が建っている。今ウイキペディアで調べたら、⇨本名清水桂。1898年生まれ。東京深川生まれ。関東大震災で継母の実家近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送る。1951年53歳で永眠。「靴がなる」のほかに「叱られて」「雀の学校」「みどりのそよ風」を作詞(いずれも弘田竜太郎作曲)。東武東上線和光市駅前に「靴が鳴る」・「叱られて」などの歌詞が刻まれた歌碑、成増駅南口に5作品の楽曲が流れる「うたの時計塔」、北口に「みどりのそよ風」・・・など。

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 寺前橋(東武東上線交差)。城口橋。大成橋。北口通(成増北口商店街)入口。成和橋。水木橋。藤の木橋。白藤橋。近くに白フジがあった?。川の流れも橋もほとんど変化は無く画一的だ。白子橋からは一直線に北東方面に流れる。いや、人造的に流しているからだ。右手に成増北第一公園。日曜日の夕方、子供たちの遊ぶ姿。そして成増橋。溝下橋。三園小。三園橋(笹目通)。長い一直線の細い歩道。三園浄水場。水道橋。いよいよ白子川最後(新河岸川への合流口)落合橋だ。水量も嵩む。落合橋から新河岸川を眺める。下流の早瀬橋?と上流の芝宮橋を撮る。200メートルばかり上流の芝宮橋まで行き、橋を渡って新河岸川の対岸へ。荒川の手前の緑地で荒川はよく見えない。近くの荒川下流の戸田橋を撮影。

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 ここから都営地下鉄三田線ターミナル「西高島平」駅にでることになるが、やや自信が無いので、堤防に居合わせたワンちゃん連れのご婦人に道を訊く。幸い近くのお人らしく、最短の近道を教えてくれた上、途中まで同道して下さった。感謝!。地下鉄に乗る前にさんざん歩き回ったので腹ぺこ。駅で乗客に訊いたらラーメン屋が一軒あり、腹ごしらえ。西高島平駅から春日乗り換え、新宿五丁目下車。バスで帰宅。(三日続けての川歩きの疲れ?で、今やっと書き上げたが、今日は歩きの二日後の11日である)  

                          (秀樹杉松 84巻/2414号)