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丸子川 (1)

               親川記:東京の川歩き(32)

    丸子川 (1)   歩いた日:2013/6/27   / Atelier秀樹

 

  呑川(1)の冒頭に書いた、世田谷区を流れる歩き対象の川のうち、残るは谷沢川と丸子川の二つだけになった。どっちを先にするか迷ったが、歴史の匂いがつよく感じられる「丸子川」を選んで、6月27日(木)朝早くから夕方まで終日歩いてきた。いや正確にいえば、朝6時半から8時半まではシルバーの仕事だったので、それを終えて新宿に駆けつけ小田急線に乗り込んだのは9時52分であった。

 ここ数日は梅雨模様だったため、休息と「呑川歩き」の執筆とに充てたので、4日ぶりの川歩きである。明け方は雨が残ったものの、久しぶりにお天道様も出た暑い一日であった。歩きはじめが10時半頃で多摩川駅から帰宅の途についたのは16時半頃であったから、よくもまあ歩いたものだ。それだけでなく、カメラに収めた写真は400枚を超えていたから、撮りもとったりだ。

 

 

 <六郷用水と丸子川> 

   出かける前の下調べが恒例となったが、やはり少しでも予備知識をもって歩くと、面白いし臨場感もある。梅雨空が続いたので、呑川歩きの執筆だけでなく丸子川のお勉強もじっくりできた。丸子川世田谷区岡本を水源として、世田谷・大田両区を流れて多摩川に注ぐ一級河川で、上流の岡本緑地で先日歩いた谷戸川を合わせ、途中で谷沢川(今度歩く予定)と交差して、終始南東に流れ、最後は丸子川の手前で多摩川に注いでいる。

 丸子川は、「六郷用水」の下流が整備され名前を変えて残っている川である。つまり、六郷用水が丸子川の前身ということである。京急の「六郷土手駅」や多摩川の「六郷橋」は知っていたが、六郷の意味はよく分かっていなかった。六郷用水は初耳である。当然ながら、先ず「六郷用水」の調べにかかった。いつもならネットの記事(ウイキペディアなど)をまず紹介するが、今日は谷戸川と合流してまもなくの「治大夫橋」の側に掲出されている、世田谷区役所の説明文から入る。

 <次大夫堀>

「<治大夫堀>:慶長年間、徳川家康が主として下流の六郷地方の米の増収をはかるため、代官小泉次大夫吉次に命じて切り開いた灌漑用水で、世田谷地方の人々は「次大夫堀」と呼んでいました」とある。初めて知ったが、六郷用水は、世田谷地方(領)では「次大夫堀」とも呼ばれていたのである。

 <六郷用水の開削>

 調べは続く。六郷用水は1597年(実に今から516年も前)から14年もかけて開削が行われ、1611年(慶長14年)に完成した。世田谷区役所の掲示板にあるとおり「六郷地方の米の増収をはかるため」の灌漑用水の開削であった。呑川(2)の末尾に記したように、呑川は蛇行しており天候によって水量が不安定で、水争いが絶えなかったので六郷用水を造ったとの解説もある。新田開発のためには灌漑用水の開削が緊急課題であった。

 <二ヶ領用水>

 1725年に六郷用水の改修が行われ、世田谷領でも用水を使えるようになり、これによって、六郷・世田谷の二ケ領用水となった。恩恵を受けるようになった世田谷領では、「次大夫堀」と呼び親しんだ。水源の世田谷区喜多見にある「次大夫公園」、今日歩いた「 治大夫橋 」もその一環である。

 多摩川を南に越えた川崎市には、面白い名前の「二ケ領用水」があ。川崎領と稲毛領の二領にまたがった用水だから斯く命名。実はこの二ケ領用水が六郷用水と関係あることが分かった。1590年に大洪水で多摩川が流路を変えたため、新たな農業用水を確保して水田開発を進める必要に迫られ、左岸と右岸を一体的にとらえた用水開拓が用水奉行小泉次大夫に命じられた小泉純一郎もすごかったが、次大夫さん偉かったですね。

 <四ヶ領用水>

 そういう由来で、二ケ領用水(川崎・稲毛の二領)六郷用水( 六郷・世田谷の二領)をひっくるめて「四ケ領用水」と呼ぶそうである。確かに両用水とも完成は慶長11(1611)年で、次大夫の総監督のもとに造り上げられた。ここまで見てくると(お定まりの表現だが)“川に歴史あり”だ。念のために記せば、以上いろいろ書いた事柄は、出かける前の下調べだけでなく、この「丸子川歩記」執筆に並行したスタディも当然含まれている。そんなわけで書き進むのは楽ではないが、これが楽しみなのだからどう仕様もない。

 <六郷用水の廃止と  丸子川>

 さて、丸子川の前身:六郷用水と、関連する二ケ領用水のヒストリーはこれ位にとどめよう。六郷用水は戦後の1946年に廃止され、350年に及ぶ長い歴史に幕を閉じる。そして、1970年代までに埋めたてられるか雨水用の下水道となった。埋め立てを免れ名前を変えて残っているのが丸子川である。変身改名した?丸子川が流れているとはいえ、六郷用水という名は消えてしまった。

 <幻の六郷用水 / 六郷川の再生>

 このため“幻の六郷用水”と呼ばれるそうだ。そういう郷愁も絡んでいるのだろうか、丸子川が多摩川に流れ込む100メートル余先には、野川からの取水で「六郷用水」が再生されている。地図にもちゃんと出ている。

 実は、時間不足もあって今回はその「六郷用水」まで足を運べなかった。しかし今になって思えば、行こうと思えば行けたのではないか。大分疲労気味でもあったので切り上げたが、折角の事前のスタディを活かせなかったのは残念に思う。確かに下調べでは知っていたが、長かった丸子川の歩きを終え、多摩川と丸子橋の素晴らしい姿に見とれパチリパチリに夢中の余り、その時点では「六郷用水」が正直頭に去来しなかった。直ぐ先(100メートル位)にあり、しかも流れはわずか500メートル位に過ぎないのに、“時間不足”は説明にならない。まあしかし、こういうことも含むのが「川歩き」であろう。

 <次大夫堀 / 治大夫橋>

 ところで、これまで大夫堀」と「大夫橋」と書いてきた。[次大夫]と[治大夫]の字違いは変換ミスではない。この同名異字は世田谷区の掲示板だけでなく、ネット情報でも変わらない。代官・用水奉行の名は小泉「大夫(じゆう)」で、橋の名前は「治大夫橋(じだいゆうはし)なそうである。字だけでなく、読みも違うのだからたまらない。撮ってきた写真をiPadで拡大してよく見た。ネットも大きく目を開いて読んだ。その通りである。どうしてそうなのかの解説は見当たらない。

 <次夫 / 次夫>

 大夫と大輔、大夫と太夫。本来の意味と実際の使われ方。これ以上の詮索はしない。ただ、タユウと読む場合の太夫は遊女・芸妓の称号として知られる。昔の階級名の「治部大夫」(正確には治部大輔)とは勿論関係ない。さらにややこしいのは、小泉はこれまで「次夫」で通用していたが、近年本人が「次夫」と書いたのが発見され、今は「次大夫」が正しいと書かれている文献にも接した。ここまで来ると「小泉進次郎」の名がちらつく。川歩きのスタディもこの辺で the end にせねば。 

 <歩き編>

 イントロが長くなったが、これも「川歩記」のうち。小田急成城学園前駅下車して前もって調べてあった東横線都立大学前行きのバス(都立01)の乗り場を探す。見つからないので人が一杯並んでいるとろに行ったら渋谷ゆき。近くの住人と思われるご婦人にきいたが分からず、二人目の男性が「少し先にバス停がある」と教えてくれた。この駅にはまとまったバス乗り場がないようだ。案内板も出ていない、ちょっとがっかり。

 実はその直前に小田急を褒めたばかりであったのに。久しぶりで小田急の急行電車に乗ったが、スピードが出ているのに揺れがほとんどなく、あたかも新幹線に乗っているような快適な気分だったので、わざわざその感想を駅員に述べた。苦情が多いだろうから、たまには率直に褒めるのもいいだろうと。良いこともあれば改善を願いたい件もある。

 4日前の谷戸川歩きのときに通りかかったばかりの大蔵通(砧公園と大蔵運動公園の間)の「区立総合運動場」でバスを降りて、公園橋を渡って東名高速の南側へ。地図で見るかぎり、丸子川は水神橋で仙川から分流しているが、それ以前に小さな水源から仙川に近接並行して500メートルばかり(暗渠部分含め)流れている、とネットなどには出ている。水源は高速の南・世田谷区岡本3-25だが、細部になると二説あるからややこしい。今回はこの点を頭に入れた上での実地探検でもあったが、正直どっちが正しいかはわからなかった。

 <丸子川の水源探し>

 丸子川は「世田谷区岡本3-25にある湧水を水源とする」とウイキペディアに書かれている。行って見たら、岡本3-25は高速道路の南に隣接しており、民有地につき立ち入り禁止となっている。宅地と高速敷地を分つ金網が貼りめぐらされ、「立ち入り禁止ー中日本高速道路(株)」の看板が金網に取り付けられている。近くの住民に水源を調べたいと話したら、ひと一人がやっと通れるほどの宅地と高速の間の狭い空間(しかも下り坂になっている)に入るのは構わない、と教えてくれた。

 現場は狭い上に坂道のため、入り込むのに苦労したが、東名高速沿いに細い側溝を少量の水が流れている。水源と見てよい。ウイキペディアに書いてあった水源の「湧水」は発見できない。また、コンクリートの水路に水流がないところには、ホースがその側を這うように置かれていた。つまり、水流が途切れとぎれになっている箇所もあったが、水源であることは確認できた。もちろん水源の流れを確かめて撮影するのは大変であり、時間も予定以上にかかった。

(因に、仙川の新打越橋付近で取水され、地下浄水装置を通った水が丸子川に流れる、とする水源異説があるようだ)。

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 苦労の末広い道路にやっと出る。仙川の縁だ。仙川上流に見える清水橋をパチリ。直ぐ左側を丸子川が流れているが、暗渠となりコンクリートの蓋が被せてある隣り合った仙川(水流)と丸子川(暗渠)が400メートルばかり続いている

 直ぐに仙川の新打越橋。「仙川の浄化施設」の看板。礫間接触酸化法という方法で浄化し、仙川の水質をよくするだけでなく、地下導水管で谷戸川と谷沢川にも送っている。特に谷沢川(今度行く予定の)下流等々力渓谷の景観美に資しているとの解説。氷川橋。西谷戸橋。ここから丸子川が開渠となり、隣の仙川には及ばないが水流が見られるようになり、両川が仲良く並流する。しかし、次の水神橋で並流は終わり、丸子川は左側に向かい一本の川としての流れを開始

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 二つの川は左右に分かれる。当初はここで仙川に別れを告げて一路丸子川を下る予定だったが、よく調べたら、仙川はこの先500メートル足らず(橋は三つだけ)で多摩川に注ぐことが判明。ここまで来たのだから、仙川のゴールまで歩き、多摩川も見てゆこうと決断。鳥居田橋。仙川の豊かな水流。田中之橋。砧南中。最後の鎌田橋(工事中)。多摩堤通。歩道橋渡って多摩川の雄大な流れに見入る。パチリパチリ。仙川が多摩川に流れ込む現場をよく観察して撮影。ここから仙川を遡り、仙川・丸子川分岐の水神橋へ戻る

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 <丸子川歩き> 

さていよいよ「丸子川歩き」が始まる。改めて水神橋からスタート、南東に向かって丸子川を下る。「岸辺の路:水神橋」の道標。「六郷用水の歴史」が銅板に書かれている。簡潔なので引用する。「六郷用水は、徳川家康の家臣小泉次大夫吉次によって、慶長2年(1597)から15年の歳月をかけて開削された農業用水です。この用水は、多摩郡泉村(現東京都狛江市)で多摩川より取水し、多摩川に並行して掘られ、全長23.2Kmありました。主に六郷領(現大田区六郷付近)の35ケ村を灌漑する目的でしたが、併せて用水が通る世田谷領14ケ村もその恩恵を蒙りました。六郷用水は、小泉次大夫吉次の名にちなみ、次大夫堀とも呼ばれています。平成3年3月世田谷区」。

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  最初の出だしは蘆などが生い茂り、水流は少量。堂ケ谷戸橋。「丸子川親水公園」の立派な道標。この辺りは親水公園となっており、一帯は世田谷区立岡本公園。「区立岡本公園民家園」がある。昔の民家が保存されている。農家出身の小生としては懐かしい。 雄鶏が金網の中で飼われている。その勇姿をパチリ。何処からか公園に小さな清流が流れこんでいる。岡本隧道(送水管専用のトンネル)もある。地図見ても直ぐに分かるが、谷戸川と丸子川が合流する一帯は広い緑地になっている。前回の谷戸川歩きでも書いた「岡本静嘉堂緑地」もある。川が清流なので鯉が泳いでいる。根河原橋。八幡橋。左から順に、丸子川・遊歩道・車道の三本が並走する。

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 下山橋(大蔵通)。前回のゴール地点でバス停「静嘉堂文庫」。「歴史と文化の散歩道:下山橋(きしべの路)」の道標。瀬田四丁目緑地。雁追橋。「みんなの川:丸子川」の大きな看板。この辺りから橋が増え、橋と橋との間隔も極端に短い。おかしいと思ってよく見たら、川の対岸の家に行く橋である。個人の費用なのか区が援助金出すのか不明だが、こんな橋見たことない。川から個人宅に架かる橋は、この先も延々と続く。

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 ついに「治大夫橋」到着。既に前段で書いたことだが、六郷用水は「次大夫堀」(じだゆうぼり)で、橋名は「治大夫橋」(じだいゆうはし)、字も読みも違う。 

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 玉川大師(玉真蜜院)。玉川通のトンネル(瀬田アートトンネル)。逍遥橋。東急多摩川線高架くぐる。調布橋。静かに整然と丸子川は流れる。おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)の道標。南大山道道標。東急大井町線高架。堺橋。稲荷橋(上野毛通)。上野毛自然公園。明神橋第三京浜。川岸に色とりどりの花が咲き競っている。倉田橋。宮下橋。玉川霊場第三十二番(善養寺)到着。善養寺の大榧(天然記念物)。狛犬や石仏など石像多し。知識も解説板もないのでよくは分からない。大日橋。流見橋。

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一羽の鴨が川石の上で片足で立っているのでパチリ。写真の出来栄え悪くない。

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 今日の丸子川は一日で歩き通した。帰宅してから写真をパソコンに取り込んでいる中に、カメラの電池が切れたため、取り込みが中断してしまった。電池入れ替えて取り込みを再開したが、「イベント」は別になってしまった。この「川歩記」はイベント単位なので、以下は便宜「丸子川(2)」として項を改める

                                    

                   (秀樹杉松 86巻/2441号)2017.10.2