秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

藤沢周平『本所しぐれ町物語』

 架空の町「しぐれ町」の叙情                     /  Atelier秀樹

 

 まずは専門家の解説を聞きます。→

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『橋ものがたり』を書き終えてのち、10年近く経ってから、藤沢周平は『本所しぐれ町物語』の総題のもとに、ふたたび市井ものの短編連作の稿を起こした。構成の単位となる短編の数は合わせて十二、その全篇を引き回す主人公がいないこと、各篇の独立性が高いことでは『橋ものがたり』の場合と同じだが、ただし、全体の仕組みや描法はまるで違う。

 もっとも目につく特徴は、しぐれ町という架空の町を設けて、物語全体の舞台とも枠組みともしたことである。もともと、藤沢周平は浅草、両国、本所、日本橋門前仲町、深川といった、隅田川沿いの下町一帯を好んで市井ものの小説の舞台とした人だが、執筆歴を重ねるうちに、そうした下町の持つ諸要素を典型的に備えた町を作り出し、その町の住人たちの生態を描くことで市井ものの集大成を図るという想を得ていたものと思われる。

 しかし、町には名が要る。思案を重ねたうえ、やがて彼はしぐれ町という名を思いつく。そうと聞いただけで、町のたたずまいや住人たちの表情がおのずと浮かび上がってくるような、情緒喚起力に富んだ実にいい名前で、思うに『本所しぐれ町物語』の構想はこの町名を探り当てた瞬間に成ったにちがいない。・・・

(『藤沢周平全集』(文藝春秋)第十四巻所収の「下町叙情 解説  向 敏」より)

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編集註

1)「しぐれ町」のワードが文中に出る出ないに関わらず、舞台は本所しぐれ町です。私の読んだ限りでは、14編中8篇に「しぐれ町」の用語が出てきます。向敏氏の解説によれば架空の町なそうですが、どういうシーンに出てくるか調べてみました。<>内は短編の書名です。

2)「本所しぐれ町」の「本所」は明治11年に開設の本所区のことで、昭和22年に向島区と合併して現在の墨田区になりました。前々号に書いた藤沢周平作品『橋ものがたり』に出てくる大川(隅田川)、小名木川、竪川、そして両国橋、新大橋、永代橋、一之橋などは全て本所区です。「秀樹杉松」で29号にわたって連載した「親川記」で書いた川や橋が頻繁に出てきます。

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「しぐれ町」というワードが出てくるシーン

鼬(いたち)の道

○丸藤はしぐれ町と隣町にまたがる広い地所と、その土地に表店、裏店合わせて十軒あまりの家作を持つ地主だった。本業は藍玉問屋で、神田鍛冶町の表通りにあるその店は繁盛している。

○二人がいるのは、しぐれ町一丁目の角にある「福助」という茶漬け屋である。「福助」は茶漬け飯を食わせるだけでなく酒も出すので、むかしから夜になると町内の男たちがあつまった。

○栄之助は足に絡まってきたものを、腹立ちまぎれに勢いよく蹴飛ばした。するとその蹴飛ばしたのがぎゃっと言ったので、驚いてみると猫だった。そこはしぐれ町の一丁目と二丁目の境を流れる小幅な水路のそばで、蹴飛ばされた猫は水路の洗い場の端にある枯れ芒の株の根もとから、じっと栄之助を見つめている。

朧夜(おぼろよ)

○半日しぐれ町にやると、掃除、洗濯、つくろいものと、まるで洗い上げるように佐兵衛の身の回りをきれいにし、夜の食事を作って帰る。だから、佐兵衛のことはおはまがいちばんよく知っていた。

○しぐれ町の佐平の家は、元々は白銀屋という北本所原庭町の太物屋の隠居所に建てられた家で、狭いながらも庭がついている。

亀治郎がしぐれ町の家に戻ると、台所で煮物をしていたおくにが急いで玄関に出てきた。

ふたたび猫

○えごの木は白く小さい花をつけていた。ひょっとしたら、帰り道でおもんの旦那に会いはしないかと心配したが、そんなこともなく、栄之助はしぐれ町の見える場所まで来た。

○泥棒に入られたのは亀沢町、・・・。そういう話を、しぐれ町あたりで文字通り対岸の火災視して、面白半分に聞いていたのだが、泥棒が川を越えて地続きの松井町に現れたとなると、島七がいうように話は人ごとではなくなったのである。

日盛り

○小屋がかかり、大道の見世物や物売りがあつまる東両国は、子供たちの胸をおどらせる舞台だったが、一人で行くにはこわい町であった。しぐれ町からは小遠く、その遠さも盛り場のこわさを増幅する作用をする。

○二丁目から三丁目のはずれにかかる一帯は、しぐれ町の目抜き通りといった場所で、大ていの店がこの辺りに集まっている。糸屋の梅田屋、味噌、醤油商いの尾張屋、小間物屋の紅屋、草履問屋の山口屋、瀬戸物商いの小倉屋、表具師の青山堂、茶問屋の備前屋と下り塩を商う三好屋にはさまれている煮染めを売る小玉屋。

乳房

○日が暮れかけているしぐれ町二丁目の通りを、おさよは裸足で歩いていた。すれちがうひとがびっくりした顔で自分を見るのもわかったし、途中何度かひとに名前を呼ばれたのも聞こえた。いまも八百常の前を通り過ぎたあたりで、聞き覚えのある女の子がおさよさんどうしたんだね、その格好はとどなったけれども、おさよは顔も上げずに通り過ぎた。

 ○歩いているうちにどんどん暗くなり、おさよがしぐれ町に戻ったときは、あたりは日暮れのようになった。

秋色しぐれ町

○男がふたたびしぐれ町に戻ってきたのは、日が落ちて町に黄昏のうす闇が広がり始はじめたころである。空にはわずかに日没のいろをとどめる雲が浮かんでいたが、地面はうす暗く、道を行く人の影がやっと見分けられるぐらいだった。

○万平の言うとおり、泥棒とばったり顔を合わせて、しかも後ろにも手下がいてはさみ撃つ格好になりながらまんまと逃げられたというのは、どう考えてもいただける話ではなかったが、鳥七は虱つぶしにしぐれ町を探し回って朝まで眠らなかったのだ。

                                                         (秀樹杉松 86巻/2459号)2017.10.18     #99