秀樹杉松

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「内藤新宿」ものがたり  ~内藤駿河守と駿馬伝説、宿場開設、岡場所(遊女/飯盛女/茶屋女)~

 

 多武峯神社 (駿馬塚)& 成覚寺 (投げ込み寺)   /  Atelier秀樹

 

 明後日11月4日(土)のミニウォーク(宿場町・内藤新宿に参加するつもりで、TWAの案内チラシを見たら、次のような<みどころ>が書かれている。

▲内藤家がこの場所を江戸の下屋敷にしたのは家康からのある提案があった。

▲今回は江戸時代からの内藤新宿の歴史を巡る

 ミニウォークに参加するのだから、内藤新宿について調べて行った方が面白い。「江戸検定試験」受験時の勉強で内藤新宿はかなり知っているが、この際だからネット情報で本格的に調べて見ました。その結果を本号の内藤新宿ものがたり」にまとめました。

 

 <内藤新宿

 江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の分岐点でもあった。甲州街道内藤新宿は、東海道品川宿中山道の板橋宿・日光街道の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から、四谷新宿と呼ばれることもある。

 <宿場開設の背景>

 慶長9年(1604年)、江戸幕府により日本橋五街道の起点と定められ、各地で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が設置された。甲州街道最初の宿場は慶長7年(1602年)に設けられていた高井戸宿であったが、日本橋から約4里(約16km)と遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であった。

 東海道品川宿中山道の板橋宿はいずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の中で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかった。このため。日本橋ー高井戸宿間での公用通行、人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。幕府成立より約100年、江戸の発展に伴い甲州街道の通行度も増加を続けていた。

 <宿場開設>

 元禄10年(1697年)、幕府に高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道日本橋・高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出、翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に宿場の開設を許可。日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることになり、元禄12年(1699年)に内藤新宿が開設された。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの地にあった「内藤宿」に由来する。

 <宿場繁栄>

 内藤新宿玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に分けられていた。宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)として賑わっていった。

 宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で、飯盛女・茶屋女として置かれていた。享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。吉原がしばしば奉行所に提出していた「遊女商売取り締まり」願いの対象にもなり、これが宿場廃止となった原因の一つという。

 <宿場廃止>

 享保3年(1718年)10月、内藤新宿は幕府によって廃止された。宿場開設より2年足らずでの決定であった。この時期は8代将軍・吉宗による享保の改革の最中であった。同じ10月に「江戸十里以内では旅籠屋一件につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されており、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取り締まりの一環として廃止された。

 <宿場再開運動>

 享保8年(1723年)、同20年(1735年)など、宿場再開・新設などの願いが出されたがいずれも却下された。その理由は、廃止の際と同じく風紀上の問題が懸念されためという。

 <宿場再開>

 明和9年(1772年)4月、内藤新宿が50数年振りに再開「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。幕府は明和元年(1764年)に、それまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更。品川宿は500人、板橋・千住宿は150人までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅した。

 宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒・引き手茶屋80軒との記録が残る。江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。現在では内藤新宿という地名は残っていないが*、新宿の名はこの内藤新宿に由来する。(*編集註:今の新宿御苑は「内藤町」です)

 <内藤駿河下屋敷内藤新宿)>

 秀忠の傅役を務めた内藤清成駿河は譜代の家臣。天正18年(1590)秀吉の命で家康が関東に移封された。清成は家康の江戸入りの先陣を務めたが、清成が拝領した広大な屋敷の伝説が伝えられている。

 <内藤屋敷にまつわる駿馬伝説>

 鷹狩りの際に家康から「馬で乗り回した土地を全部与える」と言われた内藤清成は、白馬で一気に駆け巡り、広大な土地を拝領した。白馬は家康の元へ駆け戻った直後に息絶えたという「駿馬伝説」である。新宿区内藤町多武峯内藤神社には、この伝説による「駿馬塚の碑」が残る。

(編集註)多武峯神社(とうのみね神社)は埼玉県にもあり、ここは「多武峯内藤神社」)

 そういえば、明後日のミニウォークの案内チラシのコース一覧の中に「多武峰神社(駿馬塚の碑)」とちゃんと出てます。同じチラシにある「家康からのある提案」とはこのことですね。やっと分かりました。

 何しろ白馬が倒れるほど乗り回したのだから、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保まで、四谷から代々木村にかけて20万坪の広い屋敷を拝領した。この拝領地は、のちに宿場(内藤新宿)開設のため相当量が返上されたが、明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された。(現在の新宿御苑周辺)

 <投げ込み寺(成覚寺)>

 内藤新宿は遊女・飯盛女で問題になったが、明後日のミニウォークのコースの一つに、「成覚寺(供養塔)」が記載されている。調べたら「遊女(飯盛女)」が死亡すると投げ込んだという。その数は2200人~3000人余りとのことで、三ノ輪の「浄閑寺と同じだという。

 (編集註)以上の記事は、ウィキペディアなどのネット情報を参考にしました。

 

 ◉通常のウォーキングは10km以上(20km、30kmも)で、夢中で歩くのが相場だが、このミニウォークは5kmの短距離を「歴史を見ながらゆっくり歩く」のが真骨頂。本号は事前の宣伝みたいになりましたが、次号は11月4日のミニウォーク号ですので、できれば写真入りで投稿します。お楽しみに。

 

                                                       (秀樹杉松 87巻/2472号)2017.11.1    #112