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大川周明 『日本二千六百年史』 を読む (補遺)

   

 

 天皇と幕府に関する文章の削除が多いですね。   /  Atelier秀樹

 『日本二千六百年史』(大川周明著 )が削除を余儀なくされた箇所と文章。これは歴史的な資料価値があると思います。なるたけ「全容」が明らかになるよう、前2号(上・下)に本号を追加することにしました。100%網羅ではありませんがな、「全容」と言ってもいいでしょう。

 総覧するとやはり、削除対象は天皇と幕府の叙述に関する文章が多い。(史実と思われることでも)天皇や皇室への批判めいたことは一切ダメ、という感じです。逆に、幕府の評価・賞賛に類することはタブーだったようです。

 

 いろいろな見方があるでしょうが、ベストセラーとなり、太平洋戦争劈頭にNHKラジオで著者が12回連続演説したほど、戦前戦時を席巻し、太平洋戦争突入への思想的先導者となった・大川周明と『日本二千六百年史』A級戦犯として東条英機らと裁判を受けた人物とその著作です。3号に及んだ拙稿が少しでも参考になるなら幸いです。

 なお、大川周明が削除を命じられ、実際に削除した文章には、下線を施しました。

 

→「さればこそ吾国においては、古より忠孝一本と言われている。そは日本の天皇は、家族の父、部族の族長が共同生活体の自然の発達に伴いて国家の君主となり、以って今日に及べるが故である。」(第二章:日本民族及び日本国家

 

→「壬申の乱は、中大兄皇子すなわち天智天皇と不和なる天武天皇、急激なる改革に不満なりし保守貴族党の後援のもとに皇位の争奪を行えるものであるが、・・・」(第五章:大化改新

 

→「それと同様に、もし読者にして吾国の歴史を読み欽明天皇の御宇に至り、童貞(処女)を誓いて伊勢の大廟の天照大神を祭れる皇女が、皇子と通じてその職を解かれ、敏達天皇の御宇にも、同様の悲しむべき出来事ありしを知るに至らば、上代日本の信仰が、すでにこの時において、甚だしき動揺を受けていたことを看過せぬであろう。それ天照大神上代日本における至高至尊なる信仰の中心であった。しかるにいまやその祭祀の長たる皇女が、情欲の前にひれ伏したということは日本の原始的宗教がすでに過去のものとなりしことを示すものである。吾らはこの悲しむべき出来事によりて、その背後に潜める人心の変化と信仰の衰微とを察し、かかる信仰並びにこの信仰を基礎とせる政治が、まさに変革せらるべき時期に達していたことを知る。」(第六章:仏教は如何にして日本に栄えしか

 

→「北条氏がかくの如き大悪を敢えてせるに拘らず、約百年にわたりて天下を保ち得たりしは、もとより種々なる事情ありしとはいえ、その主要な原因は、鎌倉幕府の摯実な政治が、見事に安民の実をあげたことにある。もと義時・泰時が非常の大悪を犯すに至ったのも、その動機は主として人民安堵のためであった。されば北条氏代々の執権、よく心を治国平天下の道に潜めたのであったが、わけても吾らをして感嘆に耐えざらしむものは泰時の政治である。」

 「まことに彼はその品格の高潔なりし点に於いて、国のために私を顧みざりし精神に於いて、而してその事務の才幹に於いて、真に日本政治家の儀範である。」(第十一章:鎌倉幕府の政治

 

→(頼朝に関し)「この勤皇家の観るところはまさしく肯綮(コウケイ=大切なところ、急所)に中っている。頼朝はその安民の事業、治国の勲功において、宇摩志麻手命及び藤原鎌足と並べ称すべき国家の功臣である。彼の出現、彼の改革によりて、日本の国民的生活全体が、全く新しき面目を発揮し來り、爾来七百年の日本歴史の基礎が立派に築き上げられた。」(第十二章:鎌倉時代の日本精神

 

→「宣旨は密かに各地の豪族に下された。この計画は北条氏の探知するところとなり、後醍醐天皇は誓書を関東に賜いて、辛うじて事なきを得た、もしこの時北条氏の内に義時あり、泰時あらしめば、よく京都の実情を洞察し、不穏の中心にて在せる後醍醐天皇に向かって御譲位を迫り奉り、之によって革新の気勢を殺ぐに努めたであろう。しかるに彼らが之を敢えてせざりしは決して彼らがその祖先の聡明と果断とを欠けることを示すものである。皇室は之によりて鎌倉の鼎の軽量を知り給うことを得た。従って京都に於ける革新の計画は、この一撃により阻まれることなかった。」(第十五章:建武中興

 

→「暫く勤皇論を離れて、その人物についてのみ見れば、尊氏兄弟は実に武士の上に立ち得る主将の器であった。尊氏は当時の豪族が最も尊べる名族源氏の門葉であった。彼は弓馬の道に於いて当時比類なき大将であった。彼は生死を賭する戦場に於いても、怡々(イイ:喜ぶ)たる顔色を変えることなきほど大胆であった。彼は昨日降参せる者をして今日己の陣屋を守護させる宏量を有していた。彼は己に敵せる者に対して「心中不便なり」とて之を憎むことをせず、幾度も叛きたる者を幾度となくその降を容した。彼は将士の戦死を聞く毎に、その愁傷を蔽う能わざるほど柔らかなる感情を有していた。彼は寵遇を得たる後醍醐天皇に抗し奉るの已なきに至れるを悲しみ、爾来一身を処すること隠者の如く、天下の政務を子弟に任じて自ら吻(クチ)を挟むことなく、天皇の崩ずるや、文を作って極めて皇恩を述べ、切に哀情を表し、天皇の菩提の為に天龍寺を創建した。(第十六章:室町時代

 

→「・・・議論二つに分かれて、あるいは勅許を得たる後ならでは行うべからずと唱え、あるいは勅許は到底得べからざるが故に、期限に至りて勅許なくとも調印を断行すべしと主張した。而して後者の最も堂々たる主張者は岩瀬肥後守であった。井伊大老も初めは大いに躊躇したけれど、ついに岩瀬らの主張に動かされて、条約調印を断行するに至った。かくして日本は、米国その他と無謀なる戦争を開き、これが為におそるべき禍根を植えること無くして、先ず第一の国難を踏み切ることが出来た。」(第二十六章:幕末日本の国難

 

               (秀樹杉松 87巻/2479号) 2017.11.11   # blog 119