秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

坂めぐり(第17回=2017.12.19) 行人坂、権之助坂、禿(かむろ)坂、三折(みおり)坂、etc.  

名だたる坂ばかりでした。目黒不動、甘藷先生(青木昆陽墓所にも寄ってきました。/ Atelier秀樹  

 

 前号に載せた菅沼権之助に因む「権之助坂」と「行人坂」に行ってきました。もう一つは、これも有名な「禿坂」(かむろ坂)今日のハイライトは、この三つの坂です。

 由緒ある有名な坂であるばかりでなく、例えば行人坂はすごい急坂に加えカーブもあり、本格的な坂でした。新道(権之助坂)ができるまでは、山登りみたいだったと思われます。

 

<今日のコース>

(JR目黒駅)~権之助坂~行人坂~金比羅坂〜三折坂~目黒不動男坂目黒不動女坂禿坂〜石古坂~(東急目黒線不動前駅

 

<坂めぐりメモと写真>

権之助坂(ごんのすけざか)

 江戸の中期、中目黒に菅沼権之助という名主がいた。ある時、村人のために、年貢米の取立てを緩めてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けて欲しいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は処せられることになり引かれていく。「権之助、何か思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、一目見たい」と答える。

 馬の背で縄に縛られた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育った我が家を望み、「ああ、我が家だ、我が家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかもしれないが、それは表情には現さなかった。

 村人は、この落ち着いた態度と村に尽くした功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。

 また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたと言われる。昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡り大島神社を抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。(以上、目黒区HP

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行人坂(ぎょうにんざか)

 江戸と目黒不動目黒大鳥神社などへの参詣や、目黒の農産物を江戸に運ぶ交通の要所でもある。行人坂は坂の頂上から概ね西南西に急勾配で下るため、江戸時代には坂から富士山がよく見える富士見の名所として富士見茶屋が置かれ、「江戸名所図会」にも坂の全景富士見茶屋太鼓橋の三つが描かれている。(Wikipedia

 この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大大火の一つ(行人坂の火事)とも関連して知られる。行人坂火事は明和9年(1772)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、誰いうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれる。(目黒区HP

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目黒川(太鼓橋)

先年の「川歩き」で懐かしい、目黒川に出会いました。 

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金毘羅坂(こんぴらざか)

 目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高校あたりまで上る坂道を金毘羅坂という。明治の中頃までこの坂の付近に金毘羅社があったことから、この名がついたという。明治40年、坂上に目黒競馬場がができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂に競馬場へ向かう人々があふれていた。(目黒区HP

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甘藷先生(青木昆陽墓所 / 青木昆陽墓(目黒不動竜泉寺墓地)

 サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷先生として有名な青木昆陽である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存知だろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国指定文化財(史跡)となっている。(目黒区HP) 

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三折坂(みおり坂)

 目黒不動瀧泉寺)の裏山の辻に、甘藷先生(青木昆陽墓所を示す道標が立っている。そこから、同寺の仁王門に向かって、S字状に下る坂がある。三折坂といい、左手の背丈ほどに積まれた石垣の上は、ササやクヌギが鬱蒼と生い茂り、右手には住宅が立ち並ぶ、心なしか落ち着きのある坂道である。(目黒区HP

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目黒不動瀧泉寺

 目黒不動縁起によれば、慈覚大師が大同3年(1808)比叡山に向かう途中目黒で宿を取ったその時、不動明王の夢を見たので、その像を彫り安置した。それが寺の始まりである」という。(目黒区HP) 

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                                                目黒不動 男坂  ↑

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                                                  目黒不動 女坂  ↑

 

禿坂(かむろざか)

 <品川区設置の標識>

 禿坂は河童坂の意味であるが、延宝7年白井権八が品川で処刑され、その後を慕って遊女小紫が自害した時、その侍女(かむろ)も後を追って、桐ヶ谷の二ツ池に身を投げたという。その後この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂を禿坂と呼び伝えている。(品川区教委

 坂の途中、第四日野小学校横の禿坂上に「かむろ坂の由来」という石碑がある。

 <かむろ坂の由来>

 今から三百年ほど前、数々の悪事を重ねた鳥取の武士平井権八郎直定(歌舞伎では白井権八)が鈴ヶ森で処刑され、目黒の冷心寺の僧に引き取られて葬られた。権八と相愛であった吉原の三浦屋のおいらん「小紫」は、それを知ると目黒へ急ぎ、権八の墓前で自害しました。小紫の帰りを心配した三浦家の主人は、小紫の可愛がっていた半玉(花魁の下で働く少女は、おかっぱのような髪型をしていたことから「かむろ」と呼ばれていました)を迎えに出しました。

 「かむろ」は冷心寺で小紫の死を知ることになります。泣きながらの帰途、桐ヶ谷近くに差し掛かった時、突然暴漢に教われ逃げ切れず、目の前にあった「二ツ池」に飛び込み死んでしまいました。この様子を見ていた村人は「かむろ」を哀れに思い、丘の中腹に葬り「かむろ塚」と呼んでいましたが、その後丘を「かむろ山」池を「かむろが池」と呼ぶようになったということです。都市化とともに付近の様子も変わり、残されたこの坂道が「かむろ坂」と呼び残されています。(品川区HP

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石古坂(いしこざか)

 坂の名は、石ころが多い坂だから「石古坂」と、土地の人は言う。また、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中目黒龍泉辺之図」には、この坂を石河坂とあり、そこから転じて「イシコ坂」になったらしいとも言われている。(目黒区HP) 

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<今日の坂巡りと巡り会い>

 今日も何人かの方に、道を尋ねたりでお世話になりました。ありがとうございます。一つぜひ書き留めたいのは、目黒不動近くでヤクルトの販売員さん?に会いました。長歩きで喉が渇いていたので、ヤクルトジョアを一本買い求めました。近くの坂についていろいろなことを教えていただきました。私がこれから行こうとしている「三折坂」「みつおれ坂」と言ったら、「みおり坂」だと教えてくれました。

 ついついブログ投稿していることを告げ、ブログ名(hideki-sansho=秀樹杉松)も教えました。きっと読んでくださるでしょう。今日は由緒ある有名な坂を巡りましたが、それに華を添える素敵な女性との巡り会いでした。

      (秀樹杉松 89巻2517号) 17/12/19   #blog<hideki-sansho>157