秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

葉室麟『おもかげ橋』を読む。高田村、姿見橋=俤の橋=面影橋、於戸姫、南蔵院、氷川神社、太田道灌、山吹の里、高田馬場、堀部安兵衛の仇討ち、赤穂義士、穴八幡宮、流鏑馬

 葉室麟『おもかげ橋』を読んだ。葉室氏の作品の特徴の一つが「美しい書名」にあることは以前にも書いた。『蜩ノ記』『さわらびの譜』『辛夷の花』『風のかたみ』『柚子の花咲く」『蛍草』『峠しぐれ』『橘花抄』『恋しぐれ』『風渡る』『陽炎の門』『霖雨』『星火瞬く』『草雲雀』『秋霜』……。

   wikipediaによれば、葉室氏のデビュー作は2005年の『乾山晩愁(歴史文学賞受賞作)で、没年の2017年発行は『風のかたみ』などの4作品である。『銀漢の譜』松本清張賞を受賞したのが2007年なので、作家歴は10年ちょっとしかない。この期間に、大きな感動を我々に与えてやまない名作、しかも長編を50冊以上も著した。

 今回も美しい書名にひかれて『おもかげ橋』(2013年刊)を読んだ。「おもかげ橋」が一般名称か、それとも固有名称か分からないままに読むことにした。もしかして、神田川にかかる「面影橋(新宿区と豊島区界)かも知れない。

 そんな感じで読み始めたが、文庫版の第16ページに来て「やはりそうだ」と気づいた。これまで読んだ葉室氏の作品は九州が舞台だった。氏が福岡市出身なので当然とも思って来たので、まさか東京を舞台とした小説があろうとは思いもしなかったのです。その意味でも、この作品はことさら印象に残りました。/  Atelier秀樹

 

 この小説の舞台は「俤の橋=姿見橋」(現在の「面影橋」)のある「高田村」である。現在でも、新宿区高田馬場、豊島区高田という町名・地名で残っている。会話の中に「高田村」「南蔵院」が出てきて、主人公の一人が高田村南蔵院面影橋の近く。現在の豊島区高田2丁目)に住んでいることから、この小説の舞台・書名の「おもかげ橋」は、今の新宿区西早稲田と豊島区高田の境にかかる「面影橋」であることが確認できた。

 以下、この小説で繰り広げられる、高田村・姿見橋=俤(おもかげ)の橋周辺の舞台の描写を引用します。お読みいただければお分かりのように、葉室作品には魅力的で有益な解説も織り込まれていますので。

 

 <高田村>

 「わたしの店の寮が高田村南蔵院の近くにあるのを知っているのか」/「そんなこと、知るわけがなかろう」

  あけすけに答える弥一を、喜平次は薄く笑った。

              (『おもかげ橋』幻冬社時代小説文庫版 p.16)

 

  <神田川、姿見橋=俤の橋>

   高田村は江戸市中の西のはずれにある。古くは鎌倉街道であったという目白台から続く街道をたどり、ようやく高田村に近づいたあたりで、神田川にかかる橋を目にした。この橋には姿見橋とか、(おもかげ)の橋などという呼び名があると、かつて氷川神社に参った時に耳にしたことがある。

 橋の名の由来は諸説あるらしく、伊勢物語の作者であるといわれている在原業平が、川の水面に姿を写したことから名付けられた名だとか、鷹狩りをしていた将軍徳川家光がこの近辺で鷹を見つけ、名付けたとの説がある。(同書 p.30)

 

 南蔵院氷川神社

 南蔵院真言宗豊山派の寺院で、室町時代の永和2年に開基したという。道を挟んで氷川神社がある。(同書 p.33)

 

 太田道灌、山吹の里>

 「高田村は太田道灌にちなみ、<山吹の里>などとも呼ばれております」と答えた。/「ほう、さようでござるか」・・・若い僧は弥一が何も知らないと察したのか、<山吹の里>について話し始めた。

 鷹狩りに出た武将の太田道灌が、おりからのにわか雨に難儀して蓑を借りようとこの辺りの民家に立ち寄った。蓑を貸して欲しいと頼むと、その家に住む若い娘は、山吹の一枝を差し出した。蓑を借りられなかった道灌は、なぜ娘が山吹を差し出したかわからないまま雨に打たれて帰城した。

七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき

 後日、家臣から、和歌にある「山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」の「実の」に掛けて、貸したくとも「蓑がない」という意を伝えたのだと教えられ、無学を恥じ、それから和歌の道に励んだという(同書 p.54-55)

 

 <姿見橋 = 俤 (おもかげ)の橋 の伝承>

 「この寮に参られる途中で神田川にかかる姿見橋、またの名を俤の橋をご覧になられたと思いますが、あの橋の伝承を萩乃殿はまだ聞かれてはおられないでしょう」/「存じませぬが」/ 首をかしげる萩乃に、喜平次は滑らかな口調で話した。

 戦国時代の明応年間のころ、和田靱負という武士が於戸姫という美しい娘を連れて京から落ち延び、この地に住むことになった。やがて於戸姫は、小川左衛門義治の妻となったが、夫の友人である村山三郎武範が於戸姫の美貌に迷い、横恋慕したあげく夫を殺した。後に、於戸姫は夫の仇討ちを果たしたものの、神田川に自分の姿を映して夫を失った悲運を嘆き

 変わりぬる姿見よやと行く水に映す鏡の影に恨めし

 という歌を残して入水し、夫の後を追ったという。

 「土地の人々は、於戸姫を憐れに思い、あの橋を俤の橋と呼ぶようになったと言われております。風雅であるとともに悲しい話ですな」(同書 p.58-59)

 

 堀部安兵衛高田馬場の仇討ち・十八人斬り>

 「高田村と申せば、元禄のころ赤穂浪士堀部安兵衛が叔父上を助けるためにひた走って駆けつけ、仇討ちを果たした高田馬場が近うございます」/ 堀部安兵衛が十八人斬りをしたとといわれる名高い高田馬場の仇討ち>を弥市は思い出した。

 弥生は明るく告げた。 / 「草波様は堀部安兵衛と同じくひとの危難を救おうと走られたのでございましょう。好もしいと思うのが当たり前でございます」(同書 p.213)

 

 赤穂浪士

 「彼の堀部安兵衛が十八人を斬って仇討ちをしたという高田馬場か」/「言うなれば赤穂義士が勇武を表した場所であるとも申せます」(同書 p.286)

 

 <高田の馬場、穴八幡宮流鏑馬

 寮を出て俤の橋を渡り、南東へ九里ほど行ったところに高田馬場はある。東西に六町南北に三十余間ある馬場は、三代将軍家光により旗本の馬術の訓練や八幡宮に奉納する流鏑馬を行うため造営された。

  この辺り一帯が高台で高田の地名があることや、高田村の飛び地があったことから高田馬場と呼ばれたとされる。

  馬場の北側には松並木があり、数件の茶屋があった。茶屋が立ち並ぶあたりにほど近い馬場の一角は、かつて堀部安兵衛が叔父の菅野三郎左衛門の決闘に助太刀をしたことで知られる場所だ。(同書 p.331)

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<解説> / 縄田一夫  (文芸評論家)  より

 (前略)葉室麟の快作『おもかげ橋』は、「日刊ゲンダイ」に2012年2月14日から8月31日まで連載され、加筆修正の後、2013年1月、幻冬社から刊行された作品である。

(中略)永遠に結ばれることのない恋 ー 人は誰も皆、そうした思いを乗り越えて、人生のパートナーを見つけていくものではあるまいか。

 『おもかげ橋』は人を心の底から愛したことのある方なら、その甘美な思いと甘酸っぱさのしみ入る、かけがいのない逸品なのである。

 

<裏表紙の出版社の広告文より>

 剣は一流だが道場には閑古鳥の鳴く弥市。武士の身分を捨て商家に婿入りした喜平次。16年前に故郷を追われ江戸で暮らす二人の元に初恋の女が逃れてくる。だが、変わらぬ美しさの裏には危うい事情があった。一方、国許では化け物と恐れられた男が返り咲き、藩を二分する政争が起きていた。再会は宿命か策略か? 儘ならぬ人生を描く傑作時代小説

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          『秀樹杉松』90巻2537号  # blog <hideki-sansho> 177

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