秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

坂めぐり(第38回=2018.4.16 渋谷区恵比寿+目黒区中目黒)~いなり坂、福徳稲荷社、夕やけ坂、長谷戸小学校、恵比寿公園、観音坂、馬頭観音、目黒の”新富士”と新富士遺跡、庚申塔、別所坂、目黒川、田楽橋、恵比寿ガーデンプレイス、ヱビスビール記念館、加計塚小学校、伊達坂、ビール坂

 今日の第38回坂めぐりは、渋谷区恵比寿の坂道5つと、隣接する目黒区中目黒の坂道1つ、計6箇所へ行ってきました。坂道のハイライトは、あの童謡「♪夕焼小焼」に由来する「夕やけ坂」でした。坂以外では、ビール坂に近い「加計塚小学校」でした。学校名が今世間を騒がしている学園に似ているので調べたら、それとは全く無関係でしたが、欠塚という古墳群との関わりがあることが分かりました。この「秀樹杉松」はとても及ばない、ブログ「古墳なう」の学術的な論考に巡り会いましたので、引用紹介しました。

「夕やけ坂」と「加計塚小学校」の二つは、ぜひお読みください。/ Atelier秀樹

 

第38回坂めぐりのコースと写真

 

JR恵比寿駅下車

 

いなり坂

 JR恵比寿駅の西側を線路沿いに南へ向かって登る坂道です。(tokyosaka.sakura.ne.jp

 恵比寿駅西口前の広場南側から線路沿いに南に上る。坂の中程に 福徳稲荷社があるため この坂名になった。(sakagakkai.org

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福富稲荷社

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夕やけ坂

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坂道の左側には渋谷区立長谷戸小学校がありますが、坂上にある校門の脇に「夕やけこやけの碑」(写真下)があります。「夕やけこやけ」の作曲者である草川信氏が大正から昭和にかけてこの学校の音楽教師として着任していたことからこの碑があるそうです。ここから、この坂を「夕やけ坂」と呼ぶようになったのでしょう。(tokyosaka.sakura.ne.jp)

 

谷戸小学校(ながやとしょうがっこう)

谷戸小学校の正門前に建つ“夕やけこやけの碑”にちなんで名づけられた。(sakagakkai.org)

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<夕やけこやけの碑>(長谷戸小正門)

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 草川信先生は 大正六年三月に音楽学校を卒業, 同年四月より谷戸小学校の若き音楽教師として着任。 昭和二年四月までの十余年勤務されました。その間 児童の音楽教育に情熱を傾けられ, 本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力,幾多の功績を残されました。さらに 本校在職中に児童の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表,子どもたちはこの歌を口ずさみながら成長しました。 ここに創立七十五周年を記念して草川先生を偲び この顕彰碑を建立するものであります。

 作曲・作品

  「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「風」

  「夕焼け小焼け」「春の歌」「風鈴」

  「緑のそよ風」「汽車ポッポ」他

 昭和六十二年十一月吉日

    記念碑建立実行委員会

    長谷戸小学校 同窓会

    長谷戸小学校長 池田成男書                                     (

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草川信(♪夕焼け小焼けの作詞者)

 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は作曲家

長野県埴科郡松代町(現・長野市松代町)出身。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、東京音楽学校東京芸術大学)に進むとバイオリンを安藤幸に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。

卒業後は渋谷区立小学校訓導東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校)教諭など教職の傍ら、演奏家として活動。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がける。実兄、草川信雄も同校卒業生で東京の富士見町教会オルガニストであった。

同郷に河野通勢がいる(同じ小学校に在籍していた)。

主な作品

 ゆりかごの唄北原白秋作詞)、離れ小島の(北原白秋作詞)、ふぶきの晩(北原白秋作詞)、南の風(北原白秋作詞)、夕焼小焼中村雨紅作詞)、兵隊さんの汽車(富原薫作詞・戦GHQの指令で歌詞を『汽車ポッポ』に変更)、緑のそよ風清水かつら作詞)、春のうた野口雨情作詞)、どこかで春が百田宗治作詞)、ふうりん(川路柳虹作詞)、父母の声(与田準一作詞)、ままごと(浜田広介作詞)、風(クリスティーナ・ロセッティ作詞、西条八十訳詞)、さいたま市立木崎小学校下山懋作詞)   

 (Wikipedia

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♪夕焼小焼(夕焼け小焼け) 

 村雨紅作詞、草川信作曲

夕焼け小焼けで日が暮れて

山のお寺の鐘がなる

おててつないでみなかえろう 

からすといっしょにかえりましょ

子供がかえったあとからは

まるい大きなお月さま

小鳥が夢を見るころは 

空にはきらきら金の星

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夕焼け小焼け

 日本の童謡・唱歌/夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる

『夕焼け小焼け(夕焼小焼)』は、作詞:中村雨紅、作曲:草川信による日本の童謡・唱歌。1919年に作詞、1923年に作曲された(関東大震災の1か月前)。

 作詞者の中村雨(なかむら・うこう/1897-1972)は、八王子市上恩方町(かみおんがたまち/旧・恩方村)出身の詩人・童謡作家。

写真:法起寺の夕焼け(奈良県/出典:ろまんすぐれーの徒然写真)

 帰り道に見た夕焼けの情景

雨紅は1916年に東京の師範学校卒業後、すぐに第二日暮里小学校教師となり、1918年に第三日暮里小学校(下写真)へ転勤した。『夕焼け小焼け』の歌詞はこの第三日暮里小学校時代に作詞された。

 小学校の教職員時代、雨紅は実家の恩方村(おんがたむら)から職場へ通っていた。当時最寄駅だった八王子駅から恩方村までは16kmの道のり。雨紅は毎日徒歩で駅と実家の間を往復したという。

『夕焼け小焼け』の歌詞では、駅から恩方村までの帰路に雨紅が目にした夕焼けの情景が歌い込まれている。

関東大震災を生き延びた楽譜

『夕焼け小焼け』の楽譜は、関東大震災の1か月前となる1923年7月末に文化楽社から出版された。

「文化楽譜―新しい童謡―」と題されたピアノ練習用の譜面帳に掲載されていたが、出版元は関東大震災で大きな被害を受け、楽譜の紙型から何から一切灰になってしまったという。

不幸中の幸いか、楽譜は既にわずか13部ほど人手に渡っており、それらは奇跡的に焼失をまぬかれていた。『夕焼け小焼け』は関東大震災を生き延びたのだ。

「小焼け」ってどんな意味?

『夕焼け小焼け』の「小焼け」とはどんな意味だろうか?このような質問をネットで見かけることがあるが、まとめると、大まかに次の二つの説があるようだ。

語調を整えるための意味のない言葉

「小焼け」とは、「仲良しこよし」のように、音のリズムや語調を整えるための意味のない言葉である。

夕焼け前後の情景

「小焼け」とは、「本格的な夕焼けになる前の微妙な頃合いの情景」、または「夕焼けがだんだん薄れること」、「日が沈んでから10分ぐらいして明るくなること」など様々な解釈が見られる。                                  (worldfolksong.com

 

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夕焼小焼

夕焼小焼(ゆうやけこやけ、夕焼け小焼け)は、1919年大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信1923年大正12年)に曲をつけた童謡である。1923年に『文化楽譜 あたらしい童謡・その一』に発表され、童謡としては最も広く親しまれている作品の一つである。 

楽曲解説

美しいけれどもちょっぴり寂しい、田舎の夕暮れを歌った叙情的な歌詞と、ゆったりとして歌いやすいヨナ抜き音階の曲がよくマッチした、日本の代表的な抒情歌である。関東大震災によってこの作品に関連するものはほぼ焼失してしまったが、残った13部の楽譜がもとで世間に広まった。

作詞者の中村雨紅が残した数多くの作品の中で、最も広く知られているのがこの作品である。作曲者の草川信は童謡運動の旗手として活躍した人物で、後に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子・孝子姉妹を育てた「最後の童謡作曲家」海沼實の師匠に当たる。著名な作品には、「揺籃のうた」「汽車ポッポ」「どこかで春が」「緑のそよ風」などがある。

2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。

 

夕焼小焼と八王子市

夕焼小焼バス停に停車中の夕やけ小やけ号

この歌の情景は、雨紅の故郷である東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市)のものである。彼の生家の近くにある「夕やけ小やけふれあいの里」前には「夕焼小焼」バス停が設置され、高尾駅陣馬高原下を結ぶ路線のバスが停車する。2006年11月までは、不定期にボンネットバス夕やけ小やけ号が運行されていた。 また、JR八王子駅発車メロディは、各番線でアレンジは異なるものの、2005年12月25日より全ての番線でこの曲が使用されており、同駅のコンコースにはこの歌をイメージした壁画と歌碑が屋根の段差部分に取り付けられている。 また、下記の記載通り夕方の時報の曲として利用されている。

 

記念碑と記念塔

 

夕方の時報

全国的に、平日休日問わず夕方になると各市町村で、防災無線などを介し、鉄塔パンザマスト電柱などに設置されたトランペットスピーカーから夕焼小焼(インスト)が流れ、放送周辺地域の小学生らの帰宅の合図として親しまれている。

ちなみに、かつては埼玉県羽生市(新音源)や上里町(鐘系→2013年4月以降は新音源)、東京都狛江市(旧音源)などでも使用されていた。

一部地域では、騒音問題や放送装置の老朽化もあって1980年代前半には廃止された。

                        (Wikipedia

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恵比寿公園

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観音坂(別名:新富士

 坂上近くに馬頭観世音があります。観音坂の名はこれに由来します。

日本坂道学会 tokyosaka.sakura.ne.jp)

<注>坂学会情報 sakagakkai.orgでは「新富士(別名:観音坂、中山坂)」となっています。(2018.1.29)

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馬頭観音

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 このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四(一七一九)年。このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が馬頭観音に祈って悪病を退散させました。その御礼に石で観音をつくり。祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程に安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願したので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福に暮らしたとのことです
 この道は目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。(馬頭観世音の標識=渋谷区教育委員会設置

  <註>観音坂(渋谷区)と別所坂(目黒区)は繋がっています。区界が両坂の坂上に相当。

 

目黒の”新富士”と新富士遺跡

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庚申塔

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別所坂

 この近くに別所という地名があったため別所坂と呼ばれるようになったという。「別所」とはふつう新しく開いた土地のことを意味するが、目黒では突き当たったところ、行き止まりのことを別所といっていたことから坂名になったともいう。(標識の説明 =目黒区教育委員会設置

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 別所坂は区の東北部の高台、淀橋台から目黒川の谷に面した急斜面を切り割った、いわゆる切り通しで、渋谷区境から中目黒一丁目、二丁目境を目黒川田楽橋に下る、折れ曲がった長い急坂である。

 坂の由来については、郷土目黒誌によると「この坂を下ったところに別所と呼ばれた地名のところがあったからである」と記されており、かつては江戸の人びとが麻布辺りから行楽の地、目黒に入る近道として重要な交通路であった。

 また、坂上は富士のながめの良いところで、えぞ・千島の探検で知られた近藤重蔵が文政2年(1819年)、新富士・近藤富士などと呼ばれた築山を造り、目黒元富士とともに江戸名所のひとつとして、行楽客に親しまれていたと言われている。この築山は昭和34年まで、その形を残していたが取り崩され、今は、「文政二己卯年六月建之」の碑石が残されているのみである。(目黒区HP

 この道(註=観音坂と別所坂)は目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。(馬頭観世音の標識=渋谷区教育委員会設置

 

目黒川

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                                        桜の名所目黒川は、葉桜満開でした。 

田楽橋

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恵比寿ガーデンプレイス

 恵比寿ガーデンプレイス(えびすガーデンプレイス、英文:Yebisu Garden Place)

 東京都渋谷区および目黒区に跨る複合施設である。サッポロビール工場跡地の再開発事業として1994年(平成6年)10月8日に開業した。、オフィスビルデパートを含む商業施設、レストラン集合住宅美術館などで構成されており、事業主であるサッポロビールの本社も所在する。(Wkikipedia)

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ヱビスビール記念館

 ヱビスビール生誕120年の節目にオープンしたヱビスビール記念館は、日本国内では珍しい、単独商品のブランドを冠した記念施設。(sapporobeer.jp )

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加計塚小学校(かけづかしょうがっこう)

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東京都渋谷区恵比寿四丁目にある公立小学校。恵比寿四丁目の住宅地に所在する。

<編集註>学校名があの「学園」と同じ漢字が入っているので、念のためネットで調べたら、もちろん全く無関係です。

 ただ、次のようなツイッターが見つかりました。

 →加計学園騒動で迷惑を受けているのが、恵比寿ガーデンプレイスじゃなくて、その向かいにある渋谷区立加計塚(かけづか)小学校。この辺りは古墳群があったそうで、その塚が欠けていたことから欠塚(かけづか)と名付けられ、そこに建てられたのがこの公立の小学校。(twitter風船猫

 このツイッターにより、この加計塚(かけづか)小学校が古墳群と関係あることがわかりました。早速さらにネット調査を進めたら、古墳なうというブログにアクセスできました。内容が学術的なものなので、以下に紹介します。 ……………………………………………………………….................................................

「加計塚古墳(欠塚)」

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 加計塚古墳」は、渋谷区恵比寿4丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号62番の古墳(円墳)として登録されています。画像はこの欠塚の石碑を南から見たところです。古墳はすでに削平されて消滅しており、墳丘の存在しない古墳ですが、墳丘上に立てられていたとされる「欠塚」の石碑が「加計塚小学校」の敷地内に保存されています。

 この古墳について、東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には「欠塚(景丘町11番地) もと伊達町五〇番地にあった、破壊された小円墳の名で、欠けた塚であるからこのように呼ばれたが、今はその小さい碑のみ残り、加計塚小学校校庭に移されている。

   加計塚の名も、景丘の名も、この欠塚をもとにして起ったといわれる。この附近丘陵上はもと小円墳が点々として散在し、キツネがその附近に住んだとも伝えられている。今の福徳稲荷社もその古墳の一つである。」とかつては、この周辺の丘陵上は円墳が散在する古墳群だったそうで、「欠塚」とは欠けた塚であったことからこのように呼ばれたそうです。

    この塚は大正6年頃までは校地の西側に残存していて、そこに生えていた松の木の根元にこの石碑が建てられていたそうです。その後、学校創設の際に伊達町の浅井家の庭へ、更に伊達町49番地へ移された後の昭和22年夏、同町50番地の路傍にこの石碑が二つに割れたまま放置されているのを同校の教諭に発見され、学校に運ばれたのだそうです。

 この古墳について、東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には「欠塚(景丘町11番地)もと伊達町五〇番地にあった、破壊された小円墳の名で、欠けた塚であるからこのように呼ばれたが、今はその小さい碑のみ残り、加計塚小学校校庭に移されている。

   また加計塚小学校の敷地内に建てられている「校名由来」の石碑には「昔、この附近一帯に小円墳群がありその一つが缺けていたことから、このあたりを缺塚と呼ばれたと伝えられる。

  缺塚(欠塚)の名は江戸初期、下渋谷村小字缺塚として存在した。(新編武蔵風土記稿による)本校設立にあたり、時の渋谷町長佐々木基氏、初代校長野口周作氏が合議の上この史実から校名を、東京府豊多摩郡加計塚尋常小学校と決定したものである。

  石碑「欠塚」は、本校創設の際西側敷地内にあったものが、伊達町四十九番地先に移され、後、昭和二十二年夏、この地に当時の職員が安置したものである。作者年代等不詳である。」と刻まれています。

 この古墳の正確な跡地がどこであるのかは全くわからなかったのですが、少なくとも『新修 渋谷区史 上巻』に記載されている「もと伊達町五〇番地」とは誤りで、これは「欠塚」の石碑が最後に移されていた場所であるようです。

 校地の西側という記述が正しければ画像の周辺が古墳の跡地ということになるようですが、お洒落なカフェに古墳の面影を見ることは出来ないようです。。。

 東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』の付図や『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』で公開されている分布図では、古墳の位置は校地の北西あたりに記されてます。もはや最先端の街へと変貌を遂げたこの恵比寿のど真ん中に畑が残されていることにビックリしましたが、やはりこの場所にも古墳の痕跡は残されていません。

 現在は渋谷区が所有する土地であるようですが、かつては小学校の体育館が建てられていたそうですので、この場所が古墳の跡地であったとしても墳丘が残されている可能性はなかったようです。

 この周辺に古くから暮らしていそうな地元の人に話しかけてみたりしたのですが、欠塚の言い伝えを知る人もなく、小学校内に残された欠塚の石碑の存在もすでに忘れられているのかもしれません。。。

<参考文献>

東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』

東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』

斎藤政雄『ふるさと渋谷』

東京都教育委員会都心部の遺跡』

東京都教育委員会『東京都遺跡地図』

現地説明版

                              (gogohiderin.blog.fc2.com 古墳なう

 

編集註

 このブログ(gogohiderin.blog.fc2.com  古墳なう)は、

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご~ご~ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。本格的な学術論考です。「ご~ご~ひでりん」さんに敬意を評します。(秀樹杉松)

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伊達坂

 恵比寿3丁目5と7の間から曲がりながら南方に上る傾斜のある坂道です。

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東京都渋谷区立白根記念郷土記念館『渋谷の坂』(昭和60年)には、
「恵比寿駅東口から田町駅方面に通じるバス路線に面する恵比寿3丁目の1番と2番との間の横町を入ると、屈折した急坂にさしかかる。この坂が伊達坂である。この坂上享保3年(1718)から。伊予宇和島藩の伊達家の下屋敷があった。それ以前は、長府藩毛利甲斐守綱元の拝領屋敷で、坪数は約11,000坪あったという。この家敷(ママ)が享保3年9月に上知となり、伊達家の下屋敷となったもので、同家はその後維新に至るまで変化はなかった。
 明治22年(1889)から、この伊達屋敷があった一帯が伊達跡、その東側の地域が伊達前と称されるようになったが、昭和3年(1928)には両町が合併して伊達町となった。この坂名や町名は、いうまでもなく、伊達邸に由来するものである。
 なお、現在恵比寿駅方面から田町駅方面に向かうバス路線に「伊達坂上」(恵比寿2丁目)という停留所があるが、このバス路線の坂道が伊達坂ではないので注意を要する。」とあります。   (tokyosaka.sakura.ne.jp)

 

 

ビール坂

 旧エビスビール工場の前から加計塚小学校東脇を北の恵比寿橋の方に下る。坂名は旧エビスビール工場にちなむ。(sakagakkai.org)

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JR恵比寿駅から帰宅の途へ

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        『秀樹杉松』93巻2590号  2018.4.16,  # blog <hideki-sansho> 230

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