坂めぐりもいよいよ先が見えて来ました。杉並区の坂でendingを迎えることになりそうです。今回は成田東と成田西の「白旗の坂」「三年坂」の2坂を重点に据え、近くの善福寺川・尾崎橋・五日市街道・区立児童交通公園・区立杉並二小・都立豊多摩高校などにも足を運び、写真を撮って来ました。そして高円寺南の「地蔵坂」と区立高円寺図書館へも寄って来ました。 / Atelier秀樹
白幡の坂


杉並区成田東3丁目。善福寺川緑地公園の尾崎橋を越えて 五日市街道を東に進み直ぐ右折。馬橋みちと分岐する辺り。標識なし。旧五日市街道の坂。旧字名の成宗村白幡にちなんだ坂名。坂脇には念仏講中が建立した地蔵菩薩、宝暦10年の銘が刻まれた馬頭観音が祀られている。(sakagakkai.org)
【編集註】後出の「尾崎橋」に関する杉並区公式HPに、次のように書かれています。
→「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
尾崎橋近くにある「白旗の坂」という坂名の由来も、この白旗から来ていると思います。(Atelier秀樹)
三年坂


杉並区成田西3丁目。五日市街道が善福寺川を渡る“尾崎橋”の近くに杉並第二小学校がある。この小学校と南の宝昌寺の間を東西に通る坂道。
坂上の杉並第二小学校の南西角に,大きめの金属板に書いた平板形の標識がある。
この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが 名称の由来は,はっきりしていません。
三年坂と呼ばれている坂は,京都や熊本地方などにも数多くあり,坂名の由来について様々に言われているようです。東京では,江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は,旧東京市内も六か所ほどあるようです。いずれも,地域の境界にあり,昔は急坂で,寺院や墓地がそばにあったり,または,寺院から見えるところにある坂ばかりです。
この坂で転んだものは,三年きり生きられないとか,三年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂も,ほぼ同様のいい伝えが残されており,かつては,尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。明治時代のころの地図でみますと,崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で,宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い,気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。
そこで,人々は坂の往き来に用心が必要だと言うことから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。通称地名には,昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
杉並区教育委員会 / (sakagakkai.org)
地蔵坂


杉並区高円寺南2丁目。環状7号線脇の“高円寺図書館”の東側を斜めに通る道。標識なし。坂の脇に六地蔵が祀られていた事に由来する。(この地蔵は今はなく、近くの高円寺に祀られている。)(sakagakkai.org)
<尾崎橋>
(成田東3丁目17番1号)




上流に向って左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おさき」とは、突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみて、この台地には約8,000年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義 が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次の様に記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」(杉並区役所公式HP)
<編集註>尾崎橋を「おざきばし」と読んでましたが、正式名は「おさきはし」のようです。
<五日市街道>
五日市街道(いつかいちかいどう)は、東京都の多摩地域などを通る街道。現在の東京都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。
徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。
武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。
旧道
街道は都道7号とほぼ一致しているが、都道の一部は新道に変更された区間が存在している。以下に主な旧道を挙げる。
起点付近
現在は新高円寺駅近くにある「五日市街道入口」交差点を起点とし青梅街道から分岐しているが、これは1999年(平成11年)に開通した新道で、それまでは100mほど西の交差点が起点であった。大法寺前で新旧道が合流する。
七曲り
杉並区成田東二丁目から高井戸東四丁目にかけての善福寺川付近を通る区間は、かつて「七曲り」と呼ばれた難所で、蛇行する旧道の真ん中を緩いカーブを描く現道が貫いている。細切れになった旧道は現道の歩道の一部や杉並区道などとして残されている。高井戸東四丁目17番の新旧道合流点に、杉並区教育委員会が2003年(平成15年)に設置した石碑がある。(Wikipedia)
<善福寺川緑地>


成田一帯は古くから水はけが悪く、蛇行しながら流れる善福寺川周辺には自然溜池ができるなど水害の多い地域である。戦後は宅地化が進み、河川を改修し周囲は都立公園として整備された。下流に隣接する和田堀公園は溜池を中心として造成されたのに対し、善福寺川緑地は植物を中心に造成された公園である。
荻窪一丁目の神通橋から五日市街道の尾崎橋までの約1.5キロの間に約400本の桜並木が続き、都内有数の花見の名所として知られ、近隣住民の憩いの場として、また遠方から植物や野鳥を観測する来訪者も多い。大宮八幡宮と水道道路の中間的エリアからは、坂下であるにも関わらず、西新宿の高層ビル群が一望され、都心の地理的な高低差が実感できる場所となっている。春先は花見の名所となる。1964年(昭和39年)8月1日、公園として整備され、開園
1964年(昭和39年)8月1日 - 公園として整備され、開園。(Wikipedia)


杉並二小


<杉並区児童交通公園>
(杉並区成田西1丁目22番13号)
















公園の概要
善福寺川に面し、高台になったところにあり、園内を縦横にめぐるアスファルトの道を、公園に備え付けの自転車と足踏式ゴーカートで、サイクリングを楽しみながら交通ルールを学ぶことができるようになっています。
正面を入って目につくのは、前方に一直線に伸びたメインストリートで左右にケヤキの並木が立ち、中央にはサツキツツジの分離帯があります。メインストリートの突き当たりは、青いとんがり帽子の屋根をもった赤レンガ造りの「ミニ東京駅」があります。
樹木と駅舎の景観はちょっと洒落ています。
アスファルト園路のところどころに白いペンキで横断歩道が描かれ、信号機も立っています。その園路を子供達は楽しげに、そして少し緊張した面持ちで自転車や足踏式ゴーカートを走らせています。公園というよりは遊園地の雰囲気です。
自転車と足踏み式のゴーカートがあり貸出しは無料で、自転車のサイズは色々あります。なお、自転車の利用は中学生以下の子供とその付添い人に限られます。道路で区切られ「島」になっている幾つかの広場には、パーゴラ・砂場・ブランコなどもあり、幼児も楽しめるようになっています。また、園内にはD-51型の蒸気機関車も設置されており、交通公園の雰囲気をもりあげています。
「ミニ東京駅」の左側には、もうひとつの出入り口があり、「善福寺川緑地子どもサイクリング道」に通じています。このサイクリング道の長さは1,300メートルですから、公園内の1,100メートルと合わせて全長2,400メートルになります。
公園内のコースで自転車の運転や交通ルールを学んだ後は、広々としたコースに出て存分にサイクリングが楽しめるというわけです。また、管理事務所の2階には交通教室がもうけられ、小中学校及び幼稚園・保育園・社会教育団体などに貸出しています。(杉並区公式HP)
<都立豊多摩高校>












東京都杉並区成田西二丁目にある都立高等学校。府立十三中を前身とする伝統校。2007年に進学指導推進校に指定。開校当初は姉妹校である府立一中(日比谷高校)を間借りしていた。校地は39,000平方メートル(東京ドームの83%)ある。
自主自律を校風としている。学級委員を昔のまま級長、生徒を学友と呼び、行事や部活動は学友会という名称の生徒会が中心に運営されている。さらに、「文武両道」もうたっており、近年進学実績が伸びている一方、行事・部活動も盛んにおこなわれている。2015年には、学友主導による自発的な委員会の再編が行われた。
伝統的に文化活動が盛んな校風であり、卒業生に宮崎駿、谷川俊太郎をはじめとした著名な文化人を輩出している。卒業式では本校卒業生の谷川俊太郎の詩を朗読するのが伝統になっている。(Wikipedia)
【校名の由来と校歌の誕生】
豊多摩高校は昭和15年府立第13中学校として府立第1中学校(現日比谷高校)内に併設され発足、昭和17年現在の地に新校舎が落成し、誕生しました。昭和24年ナンバースクール制が廃止された折に校名を豊多摩と制定したのですが、明治時代に現在の杉並、中野、渋谷区の全域と新宿の一部が含まれる広大な地域を豊多摩郡と称していたことに因んで命名されました。(豊多摩50周年誌より)
昭和25年、創立10周年を迎えるに当たって、それまで校歌として認知された曲はなかったのでこの機会に校歌を作ろうとの機運が教職員、生徒、父兄の間で盛り上がり、作詞を言語学者の金田一京助氏に作曲を山田耕筰氏にお願いして出来上がりました。(toyotama.org 旧制府立十三中・都立豊多摩高校同窓会公式サイト)
<編集註>昔来たことはありましたが、豊多摩高校の場所を探すのに苦労しました。学校側の了解を取った上で校舎の写真を撮って来ました。懐かしい人もいるでしょう。どうぞご覧ください。
<成田東と成田西>
地名の由来
成田とは、1889年に杉並村が成立する以前の旧村名の「成宗」と「田端」から1字ずつ取った合成地名である。成田山新勝寺のある千葉県成田市と関係がなく、1969年の住居表示実施にともない成田西・成田東として成立した地名である。杉並区において方角を伴わない「成田」という地名が行政上つけられたことはない。
杉並の地名は成宗村の北境にあたる青梅街道に植えられた杉並木に由来している。旧田端村は旧成宗村を挟む形で、東西に分かれていた。田端村と成宗村は、1889年の町村制施行時に杉並村大字田畑・成宗となる。1932年の杉並区成立時、東西に分かれていた大字田端の東側が「東田町」、西側が「西田町」となった。(Wikipedia)
<区立高円寺図書館>


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『秀樹杉松』94巻2602号 2018.5.11, #blog<hideki-sansho>242
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