いよいよ大詰めを迎えた「坂めぐり」第49回は、杉並区荻窪界隈の四つの坂(稲荷坂・兼吉つあん坂・薬罐坂・豆腐屋坂)へ行ってきました。庶民に密着した名前の坂ばかりでした。ついでに、昭和初めに消滅したとsakagakkai.orgに記載されている、「堂前坂」(どうめえざか)の痕跡を訪ねて、環八通りが善福寺川と交わる周辺も見てきました。それと、「堂前坂」や「荻窪」の由来といわれる「光明院」も訪ねました。
下調べを十分にしたつもりでしたが、今日も散々道に迷い、少なからぬ方々のヘルプを賜りました。なんとか日程を終えて帰宅してスマホを見たら、2万歩が記録されていました。 /Atelier秀樹
杉並区南荻窪3丁目。善福寺川がJR中央線をくぐる地点から,岩通荻窪寮の前の道。標識なし。南荻窪3丁目28にあった穴稲荷にちなんだ坂名。(「杉並の通称地名」による) (sakagakkai.org)
兼吉つぁん坂(かねきっつぁんざか)
杉並区上荻2丁目。西荻北の善福寺川にかかる“置田橋”近くの老舗蕎麦屋の「本村庵」の前あたりからはじまる坂。この坂を上り右折すると 荻窪地名由来の“光明院”がある。標識なし。鳶職の小張兼吉の前を通る坂であった事に由来する。小張家は今も2丁目12にある。(sakagakkai.org)
薬罐坂(やかんざか)
杉並区上荻3丁目。青梅街道の“八丁”交差点から南に曲がると“上荻本町通り”。この通りの中ほどから善福寺川まで下る坂。
坂上の交差点に,杉並区が設置した標識が建っている。
→この坂道は薬罐坂と言われていて「豊多摩郡誌」(大正五年刊)には「大字上荻窪本村に俗称薬罐坂と呼べる傾斜路あり,昔雨の夜毎に坂の中程に薬罐の転がり居れる奇怪事ありて,この名を得たるよし。雨の深夜など,今も時として薬罐出ずるなど云うものあり。」と書かれています。
今でも地元には,次のような言伝えが残されています。雨のある夜,八丁通りで一杯飲んで,家に帰る途中,ほとんど人家のない下り坂を歩いていると,真赤に焼けた大きな薬罐が道路のまん中に転っていた。一杯ひっかけて良い機嫌なので,じゃまなその薬罐を足でけとばすと,真赤な薬罐は,ころころと下り坂を転がり落ちていった。この話が広まり,その後も何人もの人が,焼けて真赤になった薬罐を見たということから,誰言うともなしに薬罐坂の呼び名がついたと言うことです。
今とはちがい交通の開けていなかった区画整理前の薬罐坂は,両側に樹木の繁った薄暗い,道幅も狭い急坂で,大八車などを引いて通るには,大変な坂道でした。そのさびしい坂には,狐狸のたぐいがすんでいて,いたずらをしたということが,このような伝説を生みだしたのかも知れません。通称地名には,昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。薬罐坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
平成三年三月 杉並区教育委員会
(sakagakkai.org)
豆腐屋坂
杉並区西荻北2丁目。井荻第三小学校(編集註:桃井第三小学校が正しい)の東方。善福寺川の
社橋に通じる道と内山橋に通じる道の間を南に上る。上った所に西荻若葉公園がある。標識なし。豆腐屋があったわけではないが、この名は古くからあった。
(sakagakkai.org)
【番外編】
堂前坂(どうめえざか)
坂学会のリストには「環状8号線善福寺川の坂 (昭和初)消滅」とあるだけです。因みに、坂学会のリストには消滅した坂名も登載されています。(もちろん、名前だけですが)。そこで、念のため「堂前坂」で検索したら、一つだけ出てきました。ちゃんと調べて、現地を歩いている方がいらっしゃるんですね。敬意を表して、引用します。
→「杉並の通称地名」に基づいて歩いた坂です。環状八号線善福寺川の坂道。昭和初年まで用いられた。光明院観音堂の南の坂なのでこの名がある と記載されています。「杉並の通称地名」の分布図で見ると、ご覧のように光明院は中央線の北側、堂前坂は善福寺川の辺りと離れています。地図上の堂前坂の場所は、現地では傾斜がほとんどありません。(tokyo-sanpo.my.cocan.jp)
<編集註1>嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。(city.suginami.tokyo.jp)
<編集註2>消滅したされるのだから、当然坂道はないのですが、この辺かなと思われる場所(環八が善福寺川に接するあたり)の写真を撮ってきました。(Atelier秀樹)
◉編集註
今月分の写真アップ量が満杯となったので、以下の項目についての写真は割愛し、来月早々に追加アップすることにいたしますので、ご了承ください。
<光明院>
(1) 慈雲山光明院は、真言宗豊山派の所属で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)行基作の仏像を背おった遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
本尊の千手観音像は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や、室町期の板碑などが出土しており、当時の開創は南北朝期にさかのぼれるものと考えられます。
今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
なお、嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。(city.suginami.tokyo.jp)
(2) 光明院(こうみょういん)は、東京都杉並区上荻二丁目にある真言宗豊山派の寺院。
創建は奈良時代以前と伝わっており、杉並区でも屈指の古刹と言われている。正式名称は慈雲山荻寺光明院といい、駅名にもなり当地付近の地名である・荻窪の由来になった寺と言われている。
言い伝えによると奈良時代以前の和銅元年(708)に名僧・行基作の仏像を背負って遊行していた僧がこの地を通りかかった際に、急にその仏像が重くなり、運べなくなったので、まわりが荻でいっぱいだった当地にお堂を作って仏像を安置したのが、当寺院の始まりであると言われている。あたりが荻だらけだった当寺院は荻寺と呼ばれ、それが荻窪の地名のルーツになったと言われている。
本尊の千手観音は南北朝時代の作とされており、境内には本尊と同時代に作られたとみられる碑などが出土しており南北朝時代には当寺院の基礎は出来ていたと言われている。江戸時代は本尊は「荻窪の観音様」と言われており、人々から厚く信仰されていた。明治時代になり付近に甲武鉄道(現在の中央線快速)が通ることになり、本堂が移動した。
エピソード=当寺院付近にある四面堂(現在の「四面道」)や「堂前」という地名も当寺院に由来するとされている。(Wikipedia)
<四面道>
「四面道」とは - 環八と青梅街道の交差点。荻窪駅近く。 かつては、上荻窪村・下荻窪村・下井草村・天沼村の四村の境界にあった。(d.hatena.ne.jp はてなキーワード)
四面道は光明院の観音堂(五間四面)=四面堂に由来するといわれる。
置田橋(左)と本村橋(右)
神明橋(左)と荻窪橋(右)
桃井三小
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『秀樹杉松』94巻2604号 2018.5.13, #blog<hideki-sansho>294 .........................................................................................................