東京23区で坂(名前がついている坂)が多いのは港区・文京区・新宿区の3区で、各区100以上でダントツ。これに次ぐのが板橋区・北区・千代田区で60台、そして世田谷区・大田区が50台。このところは、世田谷区と大田区の坂めぐりが多い。両区とも多摩川を挟んで神奈川県に接している。今日は大田区の東雪谷・仲池上・南馬込・山王の11坂を予定して出かけました。
コースの最後に予定していた「清浦さんの坂」は、ハプニングによる不手際で、歩き漏らしました。帰宅後写真整理して、そのことに気づきました。ちろん今日の坂歩きにはカウントしませんが、歩く予定だったので、坂名からは削除せずに残します。予定は11坂でしたので、10坂に終わったので、総計は571坂となりました。
今日も猛暑予報なので、早朝6時前に自宅を出発し、昼前の11時過ぎに帰宅しました。何しろ遠いところなので、往復の時間(2時間半)もばかにできません。
今日は予想外のハプニングに遭遇しました。「天祖神社」の周囲の階段で、「馬込文士村散策の道」のプレートに出会ったことです。夢中でカメラを向け、写真をいっぱい撮ってきましたので、どうぞご覧ください。/ Atelier秀樹
第61回坂めぐり(2018-7-20)
〜東京大田区東雪谷・仲池上・南馬込・山王
東急池上線「洗足池駅」下車、バス停「洗足池」でバスに乗り、「池雪小」で下車。(スタート 朝7時)


池雪小学校(ちせつしょうがっこう)
大田区東雪谷5丁目。花抜坂に隣接。


①花抜坂(はなぬきざか)(#562)


大田区東雪谷5丁目。東雪谷5丁目の長慶寺の裏手から 池雪小学校裏までの坂。北西に向かって上り坂。170m。やや急な坂(高低差11m,平均斜度3.7度)。直線。坂上と坂下に,大田区が設置した標識がある。
→「花抜坂 はなぬきざか 『大田区史』に載せられた伝説によると,この付近は野花が美しく咲き乱れ,日蓮聖人が思わず手折ったので,以来「花抜き(花の木ともいう)」の地名でよばれるようになったという。坂名はこの地名に由来する。昭和六十年三月 大田区」
伝説のとおり,この坂は古い道で,中原街道から別れて矢口の渡しまで通じる道であった。昔は現在のようなまっすぐな坂道ではなく,曲った坂道で,両側は高い崖になっていたといい,坂下は竹やぶであった。(大田区HPより)
長慶寺
<編註>暑さ対策と省エネを考慮して、写真撮影を省略しました。
②八幡坂(はちまんざか)(#563)


大田区仲池上1丁目。子安八幡神社の北側を東方向に上る坂。東北東に上る。150m。かなり急な坂(高低差11m,平均斜度4.2度)。わずかに左右に曲がりながら上る。坂上と坂下に,大田区が設置した標識がある。
→「八幡坂 はちまんざか 子安八幡神社にそってあるため,この坂を八幡坂という。坂下には子安橋があり,ともに神社から由来する名である。子安八幡神社に沿っているため,この名で呼ばれるようになった。坂下の水路には子安橋があり,ともに神社名に由来する。(大田区HPより)」
参考文献:大田区HP「雪谷地区の坂道」
子安八幡神社
仲池上1丁目。八幡神社、根方八幡とも呼ばれている。祭神:品陀和気命(15代 応神天皇)。


③六郎坂(ろくろうざか)(#564)


大田区仲池上1丁目。林昌寺の東側。仲池上1-10と13の間を北へ上る坂。北に向かって上り
140m。かなり急な坂(高低差11m,平均斜度4.5度)。左に弓なりに曲がりながら上る。坂上に大田区が設置した標識がある。
→「六郎坂 ろくろうざか 坂名は,江戸時代後期,この村のために尽した 海老沢六郎左衛門の屋敷が坂にそってあったことに由来する。坂下の水路にかかる橋を 六郎橋という。昭和六十一年三月 大田区」
仲池上,上池台付近は耕地整理によりできた坂道が多いが,これは古くからある坂道。(大田区HPより)
林昌寺(りんしょうじ)
<編註>やはり暑さと省エネを考慮して、撮影は省略しました。
④大尽坂(だいじんざか)(#565)


大田区仲池上2丁目。池上本通りの大森第十中学校前から東に向かい,第二京浜国道方向までの途中。「六郎坂」の南東にあたる。東に上る。75m。急な坂(高低差10m,平均斜度8度)。“く”の字に曲がる。短い坂。坂下に大田区が設置した標識がある。
→「大尽坂 だいじんざか 昔,大尽 (財産をたくさんもっている人) が,このあたりに住んでいたということで名付けられたという。昭和六十一年三月 大田区」
昭和初期に行われた耕地整理によってできた坂道であるといわれる。この大尽が誰であったかについては,諸説があり明らかでない。(大田区HPより)
大森十中
大尽坂に隣接。大田区仲池上2丁目。


⑤おいはぎ坂(#566)


大田区南馬込4丁目。大田区南馬込4丁目。善照寺の北側の坂。ほぼ東に上る。75m。急坂(高低差10m,平均斜度8度)。逆S字に湾曲する,少し急な坂。標識は無いが、坂下に「馬込文士村散歩」の案内地図が有り、「おいはぎ坂」が記載されている。坂名は、かつて通行人がたびたびおいはぎの被害にあったことから生まれたといわれている。また、この坂は、牛洗戸坂ともよばれたらしい。(「大田区の坂道」より)
参考文献:大田区の坂道 平成4年2月20日 第4版発行 大田区土木部管理課
<編註>坂のすぐ近くに住んでいる方のお話だと、「標識は以前はあったが、地元の反対で取り外した」由。なるほど「おいはぎ坂」は困るし、さりとで「牛洗戸坂」も...。
出世稲荷(しゅっせいなり)
南馬込4丁目。「おいはぎ坂」に隣接。


善照寺(ぜんしょうじ)
大田区南馬込4丁目。浄土真宗本願寺派。「おいはぎ坂」に隣接。


⑥鎧坂(あぶみざか)(#567)


大田区南馬込4丁目。第一京浜国道の“駒込中学校前”交差点から北西に入り,善照寺前を経て“馬込桜並木通り”交差点で北に曲がって 約100m先。北に向かって上り。160m。やや急な坂(高低差10m,平均斜度3.6度)。わずかに左右に曲がる。坂下に大田区が設置した標識がある。
→「鐙坂 あぶみざか 大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で,もとは狭い農道であった。坂の名は,伝説によると,梶原景季の愛馬磨墨が,鐙を谷に落としたところという。坂の名は,伝説によると,梶原景季の愛馬磨墨が,鐙を谷に落としたところという。昭和六十年三月 大田区」
⑦臼田坂(うすだざか)(#568)


大田区南馬込4丁目と3丁目の間。池上通りの "大田文化の森"バス停付近から北西へ,第二京浜国道の"馬込橋"方面に向かう道路。"臼田坂下"バス停から “臼田坂上”バス停にわたる坂道。北西に向かって上り。280m。緩やか(高低差18m,平均斜度3.7度)。途中わずかに右に曲がって上る。坂上に大田区が設置した標識がある。
→「臼田坂 うすだざか 坂付近に,古くから臼田を姓とする人が,多く住んでいた関係から,この名が起ったといわれている。昭和五十九年三月 大田区」
由来他:大田文化の森前から北西に曲って荏原町(えばらまち)へ抜けるバス通りの坂道です。昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂(くらやみざか)が主な道でした。このバス通りを昔は田無(たなし)街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町(えばらまち)から三軒茶屋を経て田無(たなし)へ通じる街道でした。明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無(たなし)線と呼ばれています。
坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。(大田区HPより)
命名時期:江戸時代。参考文献:大田区HP「馬込地域の坂道」
⑧右近坂(うこんざか)(#569)


大田区南馬込3丁目。“大田区南馬込文化センター”前付近から北西に上り,“臼田坂上”バス停手前まで。北西に上る。190m。やや急な坂(高低差12m,平均斜度3.6度)。ほぼ直線。坂下の馬込文化センター近くに,大田区が設置した標識がある。
→「右近坂 うこんざか この坂名の由来については,近くに「右近」という者,あるいは「おこん」という女性が住んでいたからとか,いろいろな伝説があり,あきらかでない。昭和六十年三月 大田区」
由来他:
- 臼田坂の右近くから谷中におりる坂道であるから右近坂と呼ばれるようになった。
- 坂の近くに「右近」という者,あるいは「おこん」という女性が住んでいたから。
- うこん色の着物を着た娘がよくこの坂を通ったから。(大田区HPより)
命名時期:江戸末期。参考文献:大田区HP「馬込地域の坂道」
「馬込文士村散策の道」道標
「右近坂」の標識のそばにありました。
大田区南馬込文化センター
南馬込3丁目。


山王公園
大田区山王3丁目。闇坂の西北。


⓽闇坂(くらやみざか)(#570)


大田区山王2丁目と3丁目の間。池上通りの 山王2丁目交差点の南側の交差点を西に曲がり,大きく曲がりながらに 北から西北西に上る。坂下は北に,坂上は西北西に上る。170m。急な坂(高低差12m,平均斜度4度)。途中でほぼ直角に左に曲がって上る。坂上と坂下に,大田区が設置した標識がある。
→「闇坂 くらやみざか むかし,坂側に八景園という遊園地があり,その反対側に加納邸があって,この坂道は細く曲り,八景園の樹木がうっそうとおおいかかり,昼間でも暗かったために,この名がついたといわれている。昭和五十九年三月 大田区」
八景園とは,明治17年に開園した遊園地。現在の天祖神社の裏手一帯にあたり,広さ約一万坪,数百株の梅が植えられ,東京湾の風光一望のもとに入る眺望であったといわれる。(大田区HPより)
⓾八景坂(はっけいざか)(#571)


大田区山王2丁目。池上通りがJR大森駅前(西側)を通る部分。(池上通り 旧鎌倉街道)。北北東に上る坂。360m。緩やか(高低差8m,平均斜度1.3度)。直線。大森駅山王口前に 天祖神社の石段がり,ここに大田区が建てた説明板がある。
→「大田区文化財 八景坂 はっけいざか 今でこそゆるやかな坂道であるが,昔は相当な急坂で,あたかも薬草などを刻む薬研(やげん)の溝のようだったところから,別名薬研坂と呼ばれた。この坂の上からは,かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき,この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨,鮫州晴嵐,大森暮雪,羽田帰帆,六郷夕照,大井落雁,袖浦秋月,池上晩鐘」という八景が選ばれ,八景坂というようになったといわれる。かつて坂上には,源義家が鎧をかけたと伝えられる松があり,広重らの浮世絵に描かれ,有名であった。昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会」
その昔,この坂上からの眺めは素晴しく,近くは大森の海岸,遠くは房総まで一望のもとに見渡すことができたといい,そこから八景坂と呼ばれるようになったといわれる。昔は相当の急坂で,雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研のようになったため,薬研坂と呼ばれた。(大田区HPより)
天祖神社(てんそじんじゃ)
大田区山王2丁目。八景坂の上。(八景天祖神社、神明山天祖神社)


馬込文士村散策の道(プレート)
天祖神社の周囲の急な坂段に、「馬込部文士村散策の道」のディスプレーがあり、見事なプレートが飾られていました。曲がりくねった急な石段で、通行人も多く、写真撮影には時間がかかりました。素晴らしい陳列をご覧ください。
こんな素晴らしいプレートがあるとは知りませんでした。これを見て写真撮影できただけで、今日の坂歩きは大成功でした。猛暑も吹っ飛びました。
だがやはり、思いもしなかったことに遭遇して興奮し、次の「清浦さんの坂」へ行くのを忘れてしまいました。すぐ其処(たったの70m先)なのに!
清浦さんの坂(きようらさんのさか)
別名:清浦坂。大田区山王2丁目。池上通りの山王口信号より約140m南南西に進み、北西方向に曲がって上る坂。北西から西北西方向に上る。85m。上り始めは少々急であるが坂上に近づくにつれて緩やかとなる(高低差6m、平均斜度4度)。僅かにS字状に曲がる。坂の上と下に大田区が設置した標識があり。
→「清浦さんの坂 きようらさんのさか 大森駅前池上通りから山王の高台に続くこの坂道は、大正から昭和にかけて坂の中ほどに居を構えた第二十三代内閣総理大臣「清浦奎吾」にちなんで「清浦さんの坂」と呼ばれていました。都心から程近く、海の見える緑豊かな大森山王周辺の高台は、閑静な住宅地として人気があり、多くの政治家や文人などが暮らしていました。平成ニ十七年九月 大田区」
清浦は、山王に長く住み、邸宅前の坂を清浦坂といわれるほどであった。(「馬込文士村散策マップ+散策の栞」より)。清浦奎吾は大正時代の政治家。1923(大正11)年に総理大臣に就任したが、在任5か月で辞任。
参考文献:「馬込文士村散策マップ+散策の栞」 大田区立郷土博物館 平成18年2月14日発行
<編註>帰宅後、ここに「清浦さんの坂」の写真を取り込もうとしたが、いくら探しても見つかりません。思い起こしたら実は、天祖神社に入ってからの「馬込文士村散歩道」の掲示プレートに魅せられて、夢中に撮影したのですが、その興奮で?、その次(今日の最後)に予定していた「清浦さんの坂」に行くのを失念してしまったようです。
全くのハプニングによる「歩き漏れ」で、恥ずかしいやら惜しいやらの心境です。元内閣総理大臣の清浦さん、大変失礼しました。坂巡りはできませんでしたが、予定していたので、「清浦さんの坂」の項目は残しました。もちろん<坂めぐり>にはカウントしませんが。


<編註>坂名および坂の説明は、「坂学会 sakagakkai.org」に依拠しています。写真は全て自分の撮影です。また、坂名の後の「#〇〇」は、これまでに巡り歩いた坂の総数です。
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『秀樹杉松』95巻2635号 2018-7-20 / hideki-sansho.hatenablog.com #275
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