今やっているのは第二次坂めぐりですが、新宿区もやっと終わり、今日から3回ぐらいかけて千代田区を巡ります。今日の地域には坂が多く、第一次でめぐった新坂、東郷坂、行人坂、お厩谷坂、五味坂、善国寺坂、中坂、紀尾井坂、清水谷坂、諏訪坂、梨木坂の11坂に加えて、今日は新たに三年坂、富士見坂などの9坂を歩いてきました。
今日の9坂は、地図に坂名が記載されていないものばかりです。(だから第一次では知らなかった)。それでも、9坂中6坂には標識が立っていました。地図にはいろんな項目を掲載するので、スペースが確保できないために坂名が載らない場合もあるでしょう。いずれの坂も立派でしたので、ご覧ください。
今日の坂巡りの締めくくりとなった、永田町の「富士見坂」(青山通)は広い道路の長い急坂で、坂道にそって国権の最高機関たる衆・参各院議長公邸がどっしりと構えていました。どうぞご覧ください。 / Atelier秀樹
①三年坂(さんねんざか)(#712)
~別名:三念坂(さんねんざか)、三枝坂(さんしざか)


千代田区五番町。JR市ヶ谷駅から,中央線の南側に沿って西に進むと,南側に曲がる道がある。ここが 三年坂。南南東に向かって上り。100m。緩やか。直線の短い坂。
→「三年坂 さんねんざか この坂を三年坂といいます。『新撰東京名所図会』には,「下六番町の方より 土手三番町の中間を貫き 土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも,三念坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりしにより 此名あり。然るに俗間誤りて 三年坂 と称し…」とかかれています。 平成九年三月 千代田区」
②帯坂(おびざか) (#713)
~別名:切通坂(きりとおしざか)


千代田区五番町と九段南4丁目の間。市ケ谷駅前から 南へ,水道会館の横に出る坂道。新坂の 東隣。南南西(東?)に向かって上る120m。やや急な坂。
→「帯坂 おびざか 千代田区 名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本,青山播磨の腰元お菊が,髪をふり乱し帯をひきずってにげたという伝説によります。また一名 切通し坂(きりとおしざか)ともいわれたのは.寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市ヶ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。」
③南法眼坂(みなみほうげんざか) (#714)
~別名:行人坂(ぎょうにんざか)、きんつば坂


千代田区一番町。東郷通りを北から 東郷坂・行人坂と続き,その南側を一番町の南までが南法眼坂。北に向かって上る。120m。やや急な坂。直線状。
坂途中のマンション前に千代田区が設置した標識がある。
→「南法眼坂 みなみほうげんざか この坂を南法眼坂といいます。この坂の北に 法眼坂があるためにその名が付けられたのでしょう。坂の下は3丁目谷と呼ばれています。法眼の名は,『紫の一本』に“斎藤法眼という人の屋敷,この坂のきわにあり”とかかれています。法眼とは僧の階級の一つであり,また江戸時代,医師,絵師,連歌師などに授けた称号のことです。 千代田区教育委員会 平成七年三月」
法眼坂(=東郷坂)の南にある坂なので この名がついた。(標識より)
④永井坂(ながいざか) (#715)


千代田区一番町から麹町1丁目と2丁目の間まで。“一番町”交差点付近から南へ。半蔵門駅前郵便局付近まで。南に上る。250m。緩やか。直線。
坂の途中,一番町ビルの前に,千代田区が設置した標識がある。
→「永井坂 ながいざか この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。嘉永四年(1851)の『東都番町大絵図』という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本が道をはさんで,ちょうどむかいあっているかのようにみえます。 平成九年三月 千代田区」
⑤正和坂(しょうわざか) (#716)


千代田区麹町3丁目と一番町の間から麹町3丁目と2丁目の間まで。麹町小学校と麹町学園中学校の間を北に上る坂。北北西に向かって上る。130m。やや急な坂。坂下で“く”の字に曲がる。標識なし。
坂名の由来はわかっていない。昭和坂の間違いでもないらしい。正和坂は江戸の切絵図にすでに見えている道で,新坂は明治・大正の道であることは明瞭である。太平洋戦争中に,正和会という隣組が結成された話が残っているので,この名の坂名は伝承されていたものであろう。(「東京の坂風情」より)
⑥正和新坂(しょうわしんざか) (#717)


千代田区一番町から麹町2丁目まで。麹町小学校の東側を北に上る坂。北に向かって上る。140m。140m。直線状。標識なし。
坂名の由来はわかっていない。(以下前項に同じ)
麹町小学校


⑦いちょう坂 (#718)


千代田区麹町4丁目。紀尾井町の文藝春秋西館前から北方向に上る坂。ほぼ北方向に上る。80m。少し急な坂。真っ直ぐに上る。
坂の標識は無いが「いちょう坂通り」の標識が坂下と坂上に設置されている。
→「いちょう坂通り ICHOZAKA-DORI」
坂の両側に植えてある「いちょう」からの命名と思われる。
⑧貝坂(かいざか) (#719)
~別名:甲斐坂(かいざか)


平河町1丁目から2丁目まで。新宿通りの“麹町3丁目”交差点の すぐ西側を 南に入り,150mぐらい先から 城西大学紀尾井町キャンパス2号棟付近までの短い坂。北に上る。90m。やや急な坂。ビルの間の短い坂。ほぼ直線。
→「貝坂 かいざか この坂を貝坂といいます。『江戸名所図会』には“この地は昔より甲州街道にして,その路傍にありし一里塚を 土人・甲斐塚と呼びならわせしとなり,或る説に 貝塚法印といえるが墓なり ともいいてさだかならず”とかかれていますが,貝塚があったというのが 現在定説になっています。 昭和五十年三月 千代田区」
近くから貝塚が発見されたためこの名になった(標識より)。江戸時代末期.このあたりに 蘭学者・高野長英の塾があった。坂上のビルの壁面に「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」という,あまり目立たないプレートが はめ込まれている。命名時期:江戸時代
⑨富士見坂(ふじみざか) (#720)
~別名:水坂(みずさか)


千代田区永田町と平河町2丁目の間から永田町と紀尾井町の間まで。衆議院と参議院議長公邸前。都道府県会館前付近から赤坂見附交差点(弁慶橋)付近まで。東に向かって上る。210m。緩やか。直線の広い道路。交通量が多く上には首都高速道路が通る。標識なし。
勾配が急で西に開いているだけに,富士山がよく望まれたものと思われる。衆・参議院議長公邸は,雲州松江藩松平出羽の屋敷跡である。明治になって公用地となり華族女学校の設立と歴史をつないだ。
別名の水坂は松平家が赤坂御門御水番役であったことに由来している。(「東京の坂風情」より)
衆議院議長公邸
参議院議長公邸
<編注> 坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。
坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算坂数。写真撮影はAtelier秀樹。
『秀樹杉松』98巻2696号 2018-10-5 / hideki-sansho.hatenablog.com #336