秀樹杉松

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北方謙三『楠木正成』を読む

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                   北方謙三楠木正成 中央公論新社 2000年刊

 

読んでみようと思ったきっかけは、

1)『チンギス記』と『杖下に死す』に感動したので、もう少し読んでみたい。

2)南北朝、14世紀の時代に興味がある。

3)何よりも、楠木正成への関心。

 

 国民学校時代に叩き込まれた多くの人名などは、いまでも記憶に残っています。

楠木正成、正季(弟)、正行(嫡男)、新田義貞北畠顕家後醍醐天皇足利尊氏、大楠公(正成)・小楠公(正行)、湊川の戦い四条畷の戦い、桜井の別れ、楠公の歌、……。

中でも、唱歌桜井の訣別」♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ……、♪正成(まさしげ)涙を打ち払い 我が子正之(まさつら)呼び寄せて……、は泣きながら歌ったものです。しかし、敗戦による戦時教育から平和民主教育への、突然の大変換。無理して忘れた感もあった。子供の頃は「新田義貞楠木正成はどこが同じで、どう違うのか」「どう偉いのか、どっちが偉いのか」などと、時代の波に流されもしました。

 

前置きが長くなったが、楠木正成は不明な部分があり、なかなか一筋縄では書けない人物のようですね。

 ウィキペディア ja.m.wikipedia.org にはこう書かれています。

→「楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行正時正儀がいる。後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年1880年)には正一位を追贈された。」

 

「戦国武将列伝」大楠公楠木正成」の知謀を探る senjp.comによれば、以下の通りです。 

→「生誕についての詳細ははっきりしておらず、鎌倉時代の末期、1294年(永仁2年)頃とされ、生い立ちも諸説ある。南北朝時代後醍醐天皇即位、鎌倉幕府滅亡から建武の新政や、その崩壊と南北朝分裂などを描いた、全40巻からなる日本の古典歴史文学作品「太平記」によれば、大阪河内の土豪として描かれている。

 その他にも、御家人得宗被官)として、鎌倉幕府の執権である北条氏に仕えていたという説や、正成の系譜関係が悪党的であるとされ、御家人とみなされていたという説もあるなど、そのほとんどが定かではなく、日本史の表舞台に楠木正成が本格的に登場してくるのが後醍醐天皇による、鎌倉幕府倒幕の計画に参加し、挙兵する1331年ー元弘元年ーの元弘の乱(元弘の変)からである。

 日本の歴史において、数々の英雄とされる人物が存在するが、楠木正成和気清麻呂と共に日本歴史上、二大英雄として皇居には二人の銅像が置かれており、また、功績を称えられ「楠公ーだいなんこうー」の称号と、1880年に「正一位」という、神階の最高位が贈られる。」

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 出自としては、1)河内の土豪、2)得宗被官・御家人、3)悪党・非御家人、の3説あるとされるが、この小説は「楠正成:悪党・非御家人」説の立場で書かれています。第一章「悪党の秋(とき)」で始まり、終章の第九章「人の死すべき時」の終わりまで、「悪党楠木正成です。 以下少し引用します。

 

→「悪党は武士ではない。武士であろうとしてもならないし、武士の支配下に入ってもならない。悪党がこの国に生まれた意味を、こういう時こそよく考えるべきだった」(p.41)

→「楠木正成は、悪党である幕府の御家人ではない。父や祖父は、幕府の御家人である武士や荘官と闘うことによって、いまの楠木家を築き上げた。つまり、悪党として力をつけたのだ。自分の躰に流れているのは、紛れもなく悪党の血である。(p.51-p.52)」

→「悪党として、それを考えると、正成はやはり臆病になる。……悪党の生き方を考える時、国のありように重ね合わせて考えてしまう。そのあたりに、学問が出てきてしまう。しかし、国のありようを掴まない限り、悪党の生きる道も見えるわけはない。」(p.52)

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悪党(あくとう)については、ウイキペディアにはこう書かれています。

  1. 一般に悪人を意味する語。この場合のとは、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。悪人悪漢ならず者ごろつき
  2. 日本の歴史において、中世既存支配体系へ対抗した者・階層を指す。この場合のとは、剽悍さや力強さを表す言葉。あるいは、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価を指す。

 悪党とは、荘園公領における支配体制または支配イデオロギーを外部から侵した者、を指して用いられていた。鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成河内国)、赤松則村播磨国)、名和長年伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている。

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 以上、「悪党:楠木正成」にちょっと触れてみただけです。正直告白すれば、私はよく知らなかたのです。楠木正成は、結局は悪党に生まれ、悪党に死んだようです。北方謙三楠木正成』を読んだ、偽らざる感想です。一読の価値あり。

 

『秀樹杉松』99巻2702号 2018-10-13/  hideki-sansho.hatenablog.com #342