今日は前回(おととい)の文坂(明大通)の東側の8坂を巡ってきました。町名は淡路町、駿河台です。今日も「幽霊坂」が一つありました。昔は幽霊が本当に出たんでしょうか?。それと、今日の8坂のうち5坂に別名がありました。それも、一つの坂で2つや3つの別名を。歴史を感じます。坂名に象徴されるように、御茶ノ水界隈は歴史の匂いが漂う街でした。
今日のハイライトは”アクシデント”でしょう。事前のスタディでは知らなかったものを発見したのです。それは「一口(いもあらい)太田姫神社」との遭遇です。それも、現在の神社ではなく、「此処にその神社がありました」という告知版です。詳しくは本文をお読みください。
尚いつものことですが、『秀樹杉松』坂巡りでは、引用させていただいている「坂学会」の坂解説に出てくる、坂周辺の寺社、公園、学校などは、可能な限り立ち寄って写真を撮るようにしています。坂だけの記事や写真だけでは、ある意味“無味乾燥”?みたいな感じもあるし、私自身が坂の周辺や街並みにも関心があるからです。ご了承ください。
何はともあれ、ご覧ください。 / Atelier秀樹
JR 御茶ノ水駅 (スタート)
神田川 / 聖橋


①淡路坂(あわじざか)(#735)
~別名:相生坂(あいおいざか)、一口坂(いもあらいざか)、大坂(おおさか)


千代田区神田淡路町2丁目から神田駿河台4丁目へJR中央線沿いに西に上る。“神田郵便局前”交差点から,中央線の南側を高架線路に沿って お茶の水駅前まで上る坂。西北西に向かって上り。290m。やや急坂。ほぼ直線状の坂。
→「淡路坂 あわじざか この坂を淡路坂といいます。 この坂には, 相生坂 大坂 一口坂(いもあらいざか)などの名称がつけれれています。 この坂の上に大田姫稲荷, 道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり, それにもとづき町名, 坂名がついたといわれます。一口坂については太田姫稲荷が通称一口(いもあらい)稲荷といったためとされています。 大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。 昭和三十二年四月 千代田区建立」
神田郵便局前交差点 / 神田郵便局
「淡路坂」の東。


太田姫神社(一口稲荷神社)
今日の歩き始め「淡路坂」で、路傍の老木の幹に下掲の写真のような木製掲示板がありました。事前の学習には入ってなかったので、文章も読まずに写真撮影してきました。帰宅して調べたらすごい宝物で、以前ここに「一口太田姫神社」がありました、という内容に驚きました。しかも「一口」を「いもあらい」と読む.......。
表示板には次のように書かれています。
→ 「 一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり 伊達家と徳川家が神田山を開削した時 江戸城を結界また鬼門の守り神として 旧江戸城(現皇室)よりこの地に移転された。昭和六年(一九三一)総武線開通にともない 現在の駿河台下に移る。尚鉄道(「甲武線」中央線の前身)は濠の中にあり 開通時天皇との間に 濠幅を減じない 中で商業を営まない 環境を守るとの約束がある。(明治期鉄道史より)
この木は椋(むく)の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫 」
◉つまり、この場所に昭和6年まで「一口太田姫神社」があったということですが、いま調べたら、引っ越した先は神田駿河台2−1にあるとある。前回歩いた場所にあったとは...。次回(本郷界隈)時間があったら現地に寄ってみたいのだが。
◉とりあえず、ネット情報を調べて見ました。
太田姫稲荷:一口稲荷(いもあらいいなり) 神田駿河台1-2
祭神には宇迦之御魂命・菅原道真・徳川家康が祀られている。古名を「一口稲荷神社(いもあらいいなり)」と言った。慶禄元年太田資長(後の道灌)の娘の疱瘡が平癒したことから城内に社を建立した。その後社を鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになったと伝えられている。慶長11年江戸城の改築にともない移転。その後代々の将軍はこれを崇敬して修理造営は徳川家が行ってきたと伝えられている。(千代田区観光協会 kanko-chiyoda.jp)
社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。
徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の東京都千代田区神田駿河台四丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。
明治5年(1872年)、村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改めた。大正12年(1923年)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが、昭和3年(1928年)に再建された。昭和6年(1931年)に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、現在地に遷座した。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。
②幽霊坂(ゆうれいざか)(#736)
~別名:甲賀坂


千代田区神田駿河台4丁目から神田淡路町2丁目まで。(旧)日立製作所ビル前から東南東へ,外堀通りまで。西北西に上る。190m。緩やか。直線。
→「幽霊坂 ゆうれいざか この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが,大正十三年(1924)の区画整理の際,本郷通りができたため二つに分かれた形となりました。「東京名所図会」には,“紅梅坂は 往時樹木鬱蒼にして,昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりを,今は改めて紅梅坂と称す”とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが,一般には幽霊坂の名でとおっています。 昭和五十年三月 千代田区」
昔は樹木が鬱蒼としていて,昼でも気味悪い道だったため,この名がついた。(標識より)
「紅梅坂」の南側。


③紅梅坂(こうばいざか)(#737)
~別名:幽霊坂(ゆうれいざか)、光感寺坂(こうかんじざか)


千代田区神田駿河台4丁目。ニコライ堂の北側を 西に上る短い坂。西北西に向かって上る。50m。緩やか。直線の短い坂。
坂下に千代田区が設置した標識がある。
→「紅梅坂 こうばいざか この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの名がつきました。淡路町とつながっていましたが,大正十三年(1914)の区画整理の際,本郷通りができたため2つに分かれた形になりました。 昭和五十年三月 千代田区」
④新坂(しんざか)(#738)


千代田区神田淡路町2丁目。淡路公園南側の坂。観音坂と平行する。西北西に上る。40m。緩やか。直線状の短い坂。
→「新坂 しんざか 千代田区 この坂を新坂といいます。「東京名所絵図」には「新坂は維新の後,新たに開かれたる道路なり。昔は観音坂と紅梅坂の間,阿部主計頭(かずえのかみ)の屋敷にして,此処より駿河台に登る道路なかりし,崖の上には今も旧形を存せる後の外囲ありしなり,此の練塀を道幅だけ取毀ちて通路を開きたり。故に俗呼んで坂えおいえり”とかかれています。維新の後とのみかかれ その年月は不明です。」
明治以後に新たに開かれたので,新坂と呼ぶ。(標識より)
<編注>千代田区内には、永田町、五番町にも「新坂」があります。
淡路公園
「新坂」の北にある。


⑤観音坂(かんのんざか)(#739)
~別名:観音寺坂(かんのんじざか)


千代田区神田淡路町1丁目と2丁目の間。龍名館本店ビルの北東端付近から東南東に下る坂。新坂のすぐ南側を並行する。西北西に上る。45m。緩やか。直線の短い坂。
→「観音坂 かんのんざか 千代田区 この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には”新編江戸志に、観音坂」は埃坂(ごみざか)の並び、むかし、茅浦(かやうら)観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし、新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし”とかかれています。しかし、延宝(1673~80)、元禄(1688)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。」
このあたりに『芦浦観音寺』があったため,この坂名になった。(標識より)。命名時期:江戸時代
⑥甲賀坂(こうがざか)(#740)


千代田区神田駿河台1丁目。明大通りの“神田駿河台1丁目”交差点から東,日大理工学部前まで。西北西に上る。130m。緩やか。直線状。
坂上の東京YMCA会館の前に,千代田区が設置した標識がある。
→「甲賀坂 こうがざか 千代田区 この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には,「南北甲賀町の間に坂道あり,甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔,甲賀組の者多く居住せし故とも,又光感寺(こうかんじ)の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町とよばれていたことから 名がつけられました。甲賀町の名は,昭和八年(1933)から駿河台1,3丁目となりました。」
かつてこの辺りに甲賀組の者が多く住んでいたため,甲賀町と呼ばれ,坂名はここから来ている。(標識より)。命名時期:江戸時代
YMCA会館


⑦池田坂(いけだざか)(#741)
~別名:唐犬坂(からいぬざか)、仲坂(なかさか)


千代田区神田駿河台1丁目と 3丁目・4丁目の間を北へ上る。ニコライ堂入口前付近から,日本大学歯学部の前を通って 三井海上ビル付近まで。北北東に向かって上り。約150m。
日本大学歯学部の前に,千代田区教育委員会の建てた 角柱型の標識が建っている。(下記)
→「池田坂 この坂を池田坂といいます。名称の由来は, この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東京名所図会』には「池田坂は北甲賀町の中央にあり, 駿河台より小川町に通ずる坂路なり, 其昔坂の際に池田氏の邸宅ありしより以て名とす。一名唐犬坂というとぞ。『新編江戸志』には, 「池田坂 唐犬坂とありて, むかし池田市之丞殿屋敷に唐犬ありし故, 坂名とすと見えたり, 」とかかれています。大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば, この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗本と考えられます。 平成十七年八月 千代田区教育委員会」
そのほかに,坂下の 日大理工学部1号館前に, 自然石に“お茶の水 仲坂”と刻まれたやや小型の標識がある。地元町会が設置したもの。「仲坂」は 池田坂の別名。
この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したため。(標識より)。命名時期:江戸時代
お茶の水 仲坂(「池田坂」の別名)
この石標の先(北側)は「池田坂」と一本道で繋がっていました。


日大歯学部 / 同学部付属病院


⑧雁木坂(がんぎざか)(#742)


千代田区神田駿河台1丁目と2丁目の間。JRお茶の水駅から南に120m。御茶ノ水杏雲ビルと 駿河台日本大学病院の間の坂道。小桜通りとも呼ばれる。北西に上る。緩やか。直線のごく短い坂。
坂下の日大歯学部4号館の前に,千代田区が設置した標識がある。
→「雁木坂 がんぎざか この坂を雁木坂といいます。今はその面影もありませんが,むかしは急な坂で雁木が組まれていたといいます。雁木は木材によりはしご状または階段状に組んだものです。『新撰東京名所図会』には“駿河台西紅梅町と北甲賀町に間を袋町に方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間(1865~1868)の江戸切絵図をみるに,今の杏雲堂病院の前あたりに「ガン木サカ」としるされたり”とかかれています。」
これとは別に,坂上の明大通りを渡ったところには,地元の町内会が設置した石碑が置かれている。
→「雁木坂 昭和50年1月 駿河台西町会 山田盛ニ」
昔は急な坂で,雁木(木材によりはしご状または階段状に組んだもの)が組まれていたためこのように呼ばれる。(標識より)
御茶ノ水駅(ゴール)
<編注>坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。
坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。
『秀樹杉松』99巻2703号 2018-10-14/ hideki-sansho.hatenablog.com #343