秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

94回秀樹杉松坂めぐり(2018-10-17) ~石坂、六角坂、曙坂、三段坂。〜文京区西片・小石川、台東区池之端。

 今日の坂めぐりは94回目ですが、二日連続で行ったのは今回が初めてかもしれません。昨日歩いたので次回は明日以降のつもりでしたが、お日様が顔を出してきたので、「秋の空」に誘われて出かけました。

 もう一つは、昨日までに巡った坂数が751に達したので、ちょっと資料を覗いたら、日本坂道学会」の坂情報に掲載されている坂数が全部で753(9月8日現在)であることに気づきました。つまり、あと二つに迫っていることを知って、びっくりしました。それなら、今日で追い越しとなるか、それじゃ行ってみよう、となった次第です。

 私は途中から「坂学会」情報に導かれて坂めぐりを展開しているので、この現象は不思議ではありません。とはいうものの、800坂を少し超えるぐらいで終わるとは思います。今日は文京区の坂3つと台東区の坂1つ、計4坂だけです。どうぞご覧ください。 / Atelier秀樹

 

地下鉄大江戸線春日駅(スタート)

 

石坂(いしざか)(#752)

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 文京区西片1丁目。文京区西片1丁目。白山通りの“西片”交差点の東100mから北に上る坂。くねくねとS字状に曲がる。坂下は北北東に,中間は北に,坂上は北西に向かって上る。80m。かなり急な坂。坂途中から上は左から右へ湾曲する。

 坂中間の踊り場状になった部分に文京区が設置した標識がある。

→「石坂 いしざか 「町内より南の方(かた),本郷田町に下る坂あり,石坂とよぶ・・・・・」『新撰東京名所図会』この坂の台地一帯は,備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒(おかち)組,御先手組の屋敷であった。

 明治以降,東京大学が近い関係で多くの学者,文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家),坪井正五郎(考古学・人類学者),木下杢太郎(詩人・評論家・医者),上田敏(翻訳者・詩人),夏目漱石(小説家),佐佐木信綱(歌人国学者),和辻哲郎(倫理学者)など 有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。

 ―― 西片町の景 ――   交番のうえにさしおほう桜さきけり/子供らは遊ぶ おまわりさんと  (佐佐木信綱)    文京区教育委員会 昭和60年3月」

 

六角坂(ろっかくざか)(#753)

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 文京区小石川2丁目。上富坂教会から北に100m。坂下は西南西に,途中で曲がって坂上は南に登る。90m。屈曲部はやや急坂。L字型に曲がる。

 坂の屈曲部に標識が建っている。

→「六角坂 ろっかくざか 「六角坂は上餌差(かみえさし)町より 伝通院の裏門の前に出る坂なり,古くより高家(こうけ)六角氏の邸の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると,この坂が直角に曲がっているあたりに,六角越前守の邸があったことがわかる。

 餌差町は,慶長年間(1596~1615),鷹狩の鷹の餌となる 小鳥を刺し捕えることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれたところである。近くに歌人島木赤彦が下宿し,『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。 東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」

 高家の六角氏の邸前の坂なので この名がついた。(標識より)。命名じき:江戸時代

 

曙坂(あけぼのざか)(#754)

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 文京区西片2丁目。誠之小学校の南側。区立第一幼稚園の前の狭い道を南西に曲がると,その先が やや急な石段になっている。標識は 石段の中間に建つ。東北に上る。23m。急な石段。階段。

 坂下に文京区が設置した平板型の標識と,半分欠けた石碑が建っている。

→「曙坂 あけぼのざか 『江戸砂子』によれば,今の白山,東洋大学の北西は,里俗に 鶏声ヶ窪 といわれるところであった。明治二年(1869)に町ができて,鶏声暁にときを告げるところから,あけぼの (暁と同じ) を取り 町名とした。この坂の場所と,旧曙町,鶏声ヶ窪とは少し離れているが,新鮮で,縁起の良い名称を坂名としたのであろう。

 この坂は西片と白山を結び,人びとの通学や生活に利用されてきた。昭和二十二年(1947)には 旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。 文京区教育委員会 平成十三年三月」

 かつてこの辺りは“鶏声ヶ窪”と呼ばれた。明治初期に町ができて,『鶏声暁にときを告げる』にかけて『曙』という町名とした。(標識より)。石段の下に,「曙坂」と彫られた 石碑が建っている。上部が大きく欠けている (写真下)。 

 

三段坂(さんだんざか)(#755)

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 台東区池之端4丁目。言問通りの谷中6丁目交差点から70mほど南で南東に曲がった先。坂の途中で直交する2本の道路との交差点部分が “踊り場"状の段になっていて,文字通り「三段の坂」である。北東方向に上り。160m。やや急な坂。直線。途中に踊り場があって三段になっている

 坂上近くに台東区が設置した標識がある。

→「三段坂 さんだんざか 『台東区史』はこの坂について,「戦後,この清水町に新しい呼名の坂が,ここ屋敷町の大通りに生れた。段のついた坂で,三段坂と呼ばれている」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名で,この坂道は 明治20年(1887)版地図になく,同29年版地図が描いている。したがって,明治20年代に造られた坂である。 昭和五十九年三月 台東区教育委員会

 坂の途中に段のついた坂なので,三段坂と呼ばれる。(標識より)。命名時期:第2次大戦

 <編注>簡単に言えば、三つの坂が一直線につながっている、ということです。

 

地下鉄千代田線「根津駅(ゴール)

 

<編注>坂名と坂解説は、

「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。

  坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。

 

 『秀樹杉松』99巻2705号 2018-10-17/  hideki-sansho.hatenablog.com #345