秀樹杉松

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<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(2)「新坂」

 

<古い新坂>

 新坂には、古く江戸時代の初め頃から唱えられている新坂と、江戸の末期になってできた新坂とがある。言い換えると、坂は古いが、新坂という一つの名前だけを持った坂と、名実共に新しい坂の新坂とがある。

 

 もちろん、古い新坂といっても、新坂であるからに付近の坂に比べ比べると、新しい坂なのである。であるが、一般的には古い坂という名称のみから、その坂の歴史を新しいものだと断定することはできない。例えば、小石川第六天町(春日二丁目と改称された)の新坂は、今から250年前の正徳年間に開設されたものである。

 

 古い坂は、時代と地形の変化とともに、その名称も変化する。したがって、古い坂は三つも四つも別名を持っている。こうした習慣の中にあって、一つの別名にも汚されず、生まれた時のままの新坂という名を守ってきた小石川第六天町の新坂のごときは、実に珍しい坂の一つと言わねばならない。

 

 維新後、明治になってからできた新坂は、たくさんある。しかし、その地の人々は、今日ではもう人まねの新坂という坂の名を捨ててしまって、もっとよい名をつけたがる。新しい坂のくせに、この他に二つも別の名を持っている坂もある。国電鶯谷駅のところの新坂は、鶯坂または根岸坂と呼ぶ。本郷西片町の新坂は福山坂と改名した。

 

 今日では、新しくできた坂に新坂という名はつけないようだ。開運坂とか明治坂とか昭和坂とか命名する。もちろん、民衆のつけたものではない。町会とか町会長とかの好みで命名されたものが多い。そしてりっぱな標示板が立っているのである。

 

 江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切り通し型になっている場合は、切通と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と呼ぶべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだに過ぎないのである。

 

 以上のように、二つの坂の外側へ新坂ができたために、今度新しく真ん中にはさまれた坂が、中坂と改名されたという例は決してない。中坂が改名されて、三浦坂となったという例はあっても、元名を改名して、中坂と言った例はない。なぜかというと、中坂という名は、新坂というのと全く同じ性質のものだからである。

 

      (以上、横関英一『江戸の坂 東京の坂』(全) p.023〜p.026から)

 

『秀樹杉松』101巻2749号 2018-12-15/hideki-sansho.hatenablog.com #389