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<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(4)坂名の変化転訛

 

 『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)の読書メモをブログに投稿するのは、以下のような思いを込めてです。①坂についての初歩的な情報・知識を、少しでも広めることができれば、②坂学・坂研究家の横関英一氏とその古典的名著を知ってもらえれば、③坂についての関心が幾らかでも広まり、坂愛好者が一人でも生まれるなら。この三つに尽きます。これから“面白くて為になる”坂の物語を、横関さんの著作の紹介という形でお届けします。(私の著述ではありません)

/ Atelier秀樹

 

 遅ればせながら、テキストにする本と著者を写真で紹介します。私の手もとにあるのは「ちくま学術文庫」版ですが、この他に「有峰書店版」「中公文庫版」もあります。

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 ◉今回は、テキスト本のp.037~p.044の「坂名の変化転訛」を取り上げます。坂名がいろんな事情で、変化したり転訛(発音が訛って変化)するケースを取り上げます。

 

<坂名の変化転訛>

 江戸っ子にとって、坂に名をつけることなどは、他人にあだ名をつけることよりもたやすかった。だから江戸の坂の名は、いつも固定していなかった。坂の上から海が見えたので潮見坂と言った坂も、場所が千駄木というところなので、千駄木と呼ぶのは当たり前。それが急坂で人々が度々転ぶというので、いつかまた、団子坂と呼ぶようになってしまった。

 

 坂の変化転訛には、六つの場合が考えられる。 

 

(1) 地形の変化

 文京区西片町二丁目と白山一丁目の境に「胸突坂」があるが、いつの間にか「峰月坂」に変わった。元来、胸突坂という坂は、坂を登るときに胸をつくほどの急坂なので名付けられたが、昔、豪雨のため崖崩れなどで、坂が壊れてだんだんに急坂が急坂でなくなってゆく。そしていつの間にか、傾斜のない名前負けした坂になってしまった。こんな坂にいつまでも胸突坂はふさわしくない。そこで峰月坂などという苦しい坂の名ができあがった。

 大森の「八景坂」もこれと同じで、初めは「やげんざか」(薬研坂)といったが、それが「やけいざか」と写し誤り、八景の字を当てられ、やがて景気よく八景坂とまで発展してしまった。

 

 (2) 施設物の移転、荒廃、新設など

 北区の上中里の駅の方から、平塚神社の脇へ登ってくる坂がある。蝉坂と呼ぶ。古くは攻坂(せめざか)と言った。文明9年以前は、平塚神社の今あるところの高地は、豊島氏の城砦の一部であった。蝉坂の道は、この高地のふもとから背後を突く敵の唯一の攻略路になていた。その頃、この坂の名も攻坂と言った。城砦は崩壊して城内の平塚明神が盛大に祭られる時世になって、蝉がさかんに太平の歌をうたったであろうから、攻坂が蝉坂と変わってもよいと思う。

 

 (3) 誤って坂の名を呼び違える

 千代田区永田町の永田町小学校の裏手を山王の方へ下る坂に、「三べ坂」という坂がある。この坂の別名を「水坂」と言った。しばらくこの水坂の意味が分からなかった。しかし最近、これは誤記された坂名だと分かった。「三べ坂」を速書きすると「ミづ坂」となってしまう。それを「水坂」と漢字で書き改めたので、のちに、何が何やら分からなくなってしまったのである。

 港区二本榎二丁目から東禅寺の北を北町の方に下る長い坂を桂坂と言った。一名を鰹坂(かつおざか)と呼ぶ。この「鰹坂」も何を意味するのか分からなかったが、たまたま江戸絵図を見ていて、それが分かった。絵図には、東禅寺と禅師北脇の坂に「カツラサカ」と印刷してあった。そして幸か不幸か、ラの字が不鮮明でヲの字のように読めたのである。そこで、「カツラサカ」を「カツヲサカ」と読み、鰹坂にしてしまった、というわけです。

 戦前のことだが、麻布市兵衛町との境の坂路を上っていったことがある。途中一軒の家の人と顔を合わせたので「この坂は何という坂ですか」ときいてみた。引っ越してきたばかりでよく知らないが、この坂の上に町会の案内図が出ていて、それに「サンマ坂」と書いてあったという返事である。その地図には、なるほど「サンマ坂」とペンキで書いてあった。しかしよく見ると、マの上の方がかすれていて、最初に書いたのはマではなくヤであることを知った。やっぱりこの坂はサンヤ坂、すなわち三谷坂であって、サンマ坂ではなかったのである。

 日暮里の「ごしき坂」のことも、初めは誤記であることを知らず、「五色坂」だの「御式坂」だのと考えてみたが、わかってみれば、何のことはない「乞食坂」であった。濁点の打ち違いであった。

 

(4) 故意に呼び替えたりする

 わざと変えた言い方をするのであって、多くの場合、江戸っ子の悪い癖の洒落からきたもの。文京区湯島一丁目に傘谷という谷があって、ここから北の方へ登って行く坂に横見坂がある。江戸っ子は、坂下の「傘谷」を病気の瘡(かさ)ともじって、わざと「瘡谷」とか「瘡っかき谷」とか呼んでいた。横見坂も横根坂と呼んで、うまく洒落たつもりで、得々としていた。

 

(5) 京都などの模倣からくるもの

 坂名を他所から借りてきて付けるということである。江戸の昔では、やはり京都から持ってきたものが多い。

 衣紋坂(えもんざか)という坂は現在は姿を消してしまった坂であるが、昔の新吉原という遊郭の入り口の坂であった。その頃は、吉原土手から大門まで、五十間をくねくねと三曲に曲がっていたというから、ちょっと面白い坂であったに違いない。吉原へ遊びに行く人たちが、この坂を下るときに、いつものきまりで、衣紋をつくろったということから、ついに坂の名になったと言われている。「帰りには要らぬ地名の衣紋坂」という川柳もある。

 

 しかし、その意味で、遊郭の入り口に衣紋という名をつけたのは、江戸の吉原が元祖ではない京都の島原遊郭の入り口には、寛永の昔から衣紋橋があった。この橋を渡るときに、遊客たちが衣紋を直したというのである。江戸の吉原大門口の衣紋坂が、京都の遊郭の大門前の衣紋馬場や衣紋橋を真似た名称であると言われても、江戸っ子には文句のつけようがない。

 

(6 )本当の意味の転訛

 自然に訛ったもので、故意ではないようだ。上長坂(かみながさか)を「かみなり坂」と訛ったり、木列坂(きれつざか)が「狐坂」になってしまったり、うとう坂うどん坂に、三藐坂(さんみゃくざか)が三百坂に、土井殿坂が「どんどろ坂」になったりする。御薬園坂お役人坂と訛り、日無坂東坂に、祐玄坂唯念坂になって、また幽霊坂に変わっていく。

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『秀樹杉松』101巻2752号 2018-12-18/hideki-sansho.hatenablog.com #392