秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

116回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.21港区麻布、芝公園)~富士見坂(芝公園)、銀杏坂、切通坂、我善坊谷坂、鼬坂、潮見坂(六本木)、すべり坂、あひる坂、狐坂、阿衡坂、釣り堀坂、絶河坂。~東京タワー。

 今日は東京港区の麻布、芝公園界隈の坂めぐりでした。“究極の落穂拾い”につき、12坂のいずれも手元の地図帳に坂名の記載がなく、また標識のあるのはたった1坂のみ。まさにマイナー扱い。あちこちを巡ったため、歩数は2万2千歩で結構クタクタになりました。そうは言うものの、名坂が残っておりました。

 面白かったのは、今日行った鼬(いたち)坂は前回の鼠(ねずみ)坂の北に、狐坂狸(たぬき)坂の西に、それぞれ繋がっていたことです。つまり、ネズミとイタチ、タヌキとキツネは一本の道につながっているのです。鼠坂と狸坂は地図に名が載っており、いたち坂と狐坂は載っていないために、片方が落穂拾いの対象になったのです。動物も結構大変ですね。 / Atelier秀樹

 

都営地下鉄大江戸線「赤羽橋」(スタート)

 

東京タワー

 いきなり東京タワーの歓迎を受けました。最近はスカイツリーに関心が集まりがちですが、やはり東京タワーは兄貴分の貫禄があります。赤色がいいですね。

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① 富士見坂(ふじみざか)芝公園(#854)

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 港区芝公園4丁目。東京タワー南東に道を隔てた芝公園内の丘を上る数段の石段が富士見坂。丘上に西向観音堂がある。(痕跡) 南東から南に向って上り。10m。比較的緩やかな傾斜の階段。ごく短い階段。標識なし

 東京タワーから道路を隔てた小さな丘に“西向観音堂”がある。この丘はもと富士見台といわれ,タワーの下(旧十九号地)から上がって行く細い坂道があった。いまは,観音堂へ上る数段の石段があるだけだ。木々に囲まれた,小さな古びた堂の姿に風情がある。冨士の眺めはすでにない。 (「今昔東京の坂」より)

 観音堂に通じる階段は3つある。(1)東京タワー側から上る短い階段。(2)南から北に上る階段。(3)北から南に上る階段。どの階段が富士見坂なのか資料によって混乱があるが,かつて富士山が見えたであろうルートは,西南西側が見通せる(1)であろう。

 参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981

<編注>

 写真のように、坂の頂上部分は工事中で、入ることができませんでした。その部分の写真と、南から北に上る坂、北から南に下る坂の写真を6つ撮ってきました。私見では、今では、南北両方から上る二つの坂を合わせて「富士見坂」と言ってもいいのではないか?。

 

② 銀杏坂(いちょうざか)(#855)

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 港区芝公園3丁目。東京プリンスホテルの北“芝公園三丁目”交差点付近から,プリンスホテルの西“東京タワー前”交差点付近まで。坂下は西に向かって上り,途中向きを変えて,坂上部は南南西方向に上る。300m。緩やか。途中でほぼ直角に曲がる,道幅の広い坂。標識なし

 もとこの付近一帯は増上寺と徳川家の霊屋(おたまや)があった。明治初年に増上寺領の大部分は,東京市芝公園となり,多くの改造が行われ新道が開かれるなど地形をかなり変じた。戦後は徳川家の 霊屋が取払われて,跡地は東京プリンスホテルが建った。その間道路も拡大改修されているので,銀杏坂は昔どおりの坂ではなくなった。(「江戸東京坂道事典」より)

 参考文献:江戸東京坂道事典」 石川悌二 新人物往来社 2003

 

③ 切通(きりとおしざか)(#856)

  別名:手まり坂(てまりざか)

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 港区芝公園3丁目。オランダ大使館前から正則高校前を通って,青松寺南に下る坂。坂下は南南西に向かって上り,途中向きを変えて,坂上部は西方向に上る。230m。かなり急な坂。坂下側でほぼ直角に曲がる,道幅の広い坂。標識なし

 愛宕山の南にあたり,青松寺の脇から青龍寺の前を通り,水道局芝給水所の先から永井坂に出て飯倉の交差点につながる。上に行くほど広くなり,オランダ大使館の前は手まり坂と呼ばれ,曲折するところはまるで広場である。寛永のころに開かれたというこの坂下の一帯は寺参りの男女をあてこんだのか,民衆芸の小屋が並んで大変賑やかだった。(「東京の坂風情」より)

 命名時期:江戸時代(寛永年間)

 

我善坊谷坂(がぜんぼうだにざか)(#857)

  別名:稲荷坂(いなりざか)

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 港区麻布台1丁目と虎ノ門5丁目の間。東西に延びる我善坊谷の中ほどから直行するように北に入り,西に曲がりながら六本木ファーストプラザに向かう坂。ァーストプラザに向かう坂。90m。急坂。“く”の字に曲がる,狭い坂。標識なし

 由来他:我善坊谷麻布台地の北側の谷。西よりに落合坂があり,東は西久保八幡脇にでる。坂の名はこの谷に由来するが,坂道は崖地を削るように,一部曲折して谷道に方向をかえる。谷道をそのまま横切って進めば霊友会釈迦殿裏の三年坂につづく。(「東京の坂風情」より)

 我善坊谷は“龕前坊谷”とも書き,寛永3年,二代将軍秀忠の室(お江与)の葬礼が芝増上寺で執行され,葬列の途中の道筋にあたるこの坂下の谷に仮御堂が置かれた。この御堂を“龕前堂(がぜんどう)”と呼ばれ,後にこの谷筋は“龕前堂谷”と呼ばれ,やがて我善坊谷に転訛したという。(「江戸の坂道散歩」より) 

 

 

坂 (いたちざか) (#858)

  別名:イタチ坂(いたちざか)

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 港区麻布台3丁目。旧IBM飯倉ビル(麻布郵便局前)から南西に下る坂。坂下で植木坂と接する。北東に向って上る。85m。急坂。直線の狭い坂。標識なし

 由来他:この坂につながる「鼠坂」「植木坂」とまぎらわしく説明されたり,植木坂の一部と説明されることもあった。坂名の由来についての確証はないが,起伏のはげしい谷筋であっただけに,いたちも出没して人を驚かしていたのではないか。続いている鼠坂や近くの狸穴坂にも対応しているのかもりれない。坂下の東は崖となって谷に続き,西は山地の崖際で,いわば崖の一部を削って道としたような位置にある。(「東京の坂風情」より)

 

潮見坂(しおみざか)(六本木)(#859)

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 港区六本木5丁目。於多福坂の坂下から,鳥居坂坂上に向かって,曲折しながら上る急坂。坂下は西北西に,坂上部は南に向かって上る。70m。急坂。坂の途中で鋭角に左に曲がって上る狭い坂。坂上と坂下に車止めがあり,歩行者専用になっている。標識なし

 路地裏の道のような短い曲折の坂。坂名は江戸の台地によくある呼び名で,ここから竹芝方面の海がのぞまれたのであろう。今は望むべくもない。(「東京の坂風情」より)

 参考文献:「東京の坂風情」道家剛三郎 東京図書出版会

 

すべり坂 (#860)

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 港区麻布十番1丁目。環状3号線の“鳥居坂”交差点より20mほど東から,南の商店街に下る。北北東に向かって上る。25m。緩やか。短い小規模な坂。標識なし

 

あひる坂 (#861)

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 港区麻布十番1丁目。(旧)麻布十番温泉の東側を北に,環状3号線に向かって上る坂。北北東に向かって上る。15m。局所的にはやや急な勾配。坂とは呼べないほど小規模な坂。坂の痕跡。標識なし

 ほんの小路である。暗闇坂を下ったところの麻布十番温泉という銭湯の東横を北に環状3号線に出る。前方に鳥居坂。坂名の由来はわからない。(「今昔東京の坂」より) 環状3号線を挟んで 鳥居坂の対面にあり,鳥居坂の傾斜の延長のようにも見える。なお“麻布十番温泉”は,2008(平成20)年に廃業となった。

 参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981

 

狐坂(きつねざか)(#862)

  別命:大隅おおすみざか)

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 中坂の坂上から東に入り,中国大使館の大使公邸まえから麻布浄苑付近まで。西に上る。170m。かなり急な坂。左右に曲がりながら上る。標識なし

 元麻布3丁目の通称大隅山をサウディアラビヤ大使館(現・アラブ イスラーム学院)前から東へ,狸坂のふもとまで下る坂で,大隅ともいい,また狸坂に対して狐坂としたものである。(「江戸東京坂道事典」による)

 

10.阿衡坂(あこうざか)(#863)

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 港区南麻布3丁目。フィンランド大使館横から本村小学校前まで。そのまま奴坂につながる。西に上る。130m。緩やか。直線。標識なし

 本村小学校一帯は,江戸時代初期には保科肥後守下屋敷であった。保科正之は2代将軍秀忠の実子で高遠藩主保科家の養子となった。秀忠は彼の性が温厚明敏であることを認め,徳川将軍の侍従として,中国でいう“阿衡”(天子の補佐役=摂政または宰相の異称)の職にあった。これが坂名のついた由来。この人物がよほど謙虚誠実で,庶民や官僚に敬愛されていたことが分かる。(「東京の坂風情」より) 命名時期:江戸時代

 

釣堀坂(つりぼりざか)(#864)

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 港区南麻布3丁目。本村小学校の難東端から東へ。薬園坂に至る。下って上る坂。東方向に下って上る。110m。急坂。ほぼ直線で下って上る坂。東側の坂はスロープ横に階段が併設されている。標識はないこの谷あいにはもと釣堀があったのが坂名になった。現在 釣堀は埋められて団地になっている。(「江戸東京坂道事典」による)

 命名時期:昭和初期

編注

 坂を上ってきたおばあさんが「私が嫁に来た頃はこの坂のそばに釣り堀があった」と教えてくれました。

 

絶江坂(ぜっこうざか)(#865)

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 港区南麻布2丁目と3丁目の間。明治通り“四の橋”交差点の140mほど東から 北に入る坂。曹渓寺と延命寺の間から若松寺の前付近まで。坂下は北へ,途中から北西に上る。140m。坂下部はやや急な坂。坂の途中で「く」の字に曲がる,狭い道。

 坂上と坂下とに港区が設置した標識がある

→「絶江坂 ZEKKO ZAKA 港区    承応2年(1654),坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転して来た。初代和尚絶江が名僧で 付近の地名となり 坂名に変った。 平成五年十月」

 由来他:落語 「黄金餅に登場する坂。

編注

 今日の12坂のうち、ただ一つこの「絶江坂」だけ標識がありました。

 

 

都営三田線白金高輪(ゴール)

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<編註>

坂名、坂解説は坂学会/東京の坂」sakagakkai,org 坂のプロフィール に依拠。坂名の直後の(#)は、秀樹杉松坂めぐりの累計坂番号。写真撮影はAelier秀樹。

 

『秀樹杉松』101巻2755号 2018-12-21/hideki-sansho.hatenablog.com #395