秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(9)逢坂

 

 今回は「逢坂」(おうさか) です。ロマンスのこもった坂名の由来です。横関氏の名文をどうぞお読みください。 / Atelier秀樹

 

 数多い逢坂(おうさか)の中で、一番有名な逢坂は、京都に近い逢坂山の逢坂で、昔、関所のあったところ、蝉丸が付近に住んでいたところとして、誰でもが知っている。逢坂は大坂の当て字であることに間違いはないようだ。初めから逢坂と名付けられた坂は、私の知っている範囲では、数が少ないのではないかと思う。

編注

 最近何かの本で、「それは違う」と言う本を読みました。

 

坂迎え、酒迎え、関迎え 

 昔、京都では親戚朋友などが伊勢参宮をするときに、出立には栗田口まで送って行き、帰ってくるときは、山城と近江の国境逢坂まで出向かいに出て、ここで旅の無事を祝って酒を飲み交わした。そこで、これを坂迎え酒迎え関迎えなどといった。これらのことから、大坂が逢坂と当てられたのではないか。逢坂は、ときどき相坂会坂などとも書かれた。

 

<新宿船河原町逢坂

 江戸には、大阪という坂が六つあったが、逢坂と書いたものは少ない。しかもその逢坂も明らかに大坂に当てられた逢坂である。新宿区船河原町、旧都電逢坂下停留所から、ちょっと入って西に上るかなり急な坂がこの坂である。江戸の坂としては珍しく、妙に気取った名前で、どうしても江戸っ子のつけたものとは考えられない。それはこうである。―――

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    ↑ 逢坂(おうさか)(新宿区船河原町

      第88回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.5)。写真撮影:Atelier秀樹

 

 美男小野美佐吾(武蔵守)

 昔、と言っても江戸の昔ではない、もっともっとさかのぼった奈良朝時代の物語である。小野美佐吾という美男が武蔵守となって、東国へ下り、今の牛込辺りに住居を構えた。そして、この地のさねかづらという美女に逢う。若い都びとの美佐吾と、真間の手古奈に劣らないさかねかづらとは、恋に陥り、日夜楽しい逢瀬を重ねていたが、世はままならず、突然美佐吾は、勅命によって奈良の都へ帰らねばならなくなった。不幸な美佐吾は奈良へ帰るとそのまま床に臥す身となり、病は重く、さかねかづらのことを思いながらも、ついにあの世に旅立ってしまった。

 

美女さかねかづら

 一方、さかねかづらは、そんなことは夢にも知らない。恋のうま酒なお忘れかねてか、もろもろの神仏に再会を祈願する。ある夜の夢に、この坂のほとりに行けば恋しい男に逢うことができると、神のお告げがあって、目が覚めた。彼女は心もうきうきと、急いでこの坂に来てみれば、はたしてみさごに逢うことができた。嬉しさのあまり男の胸に抱きつくと、無言の男の姿は煙のように消え失せる。呆然とした彼女は、そこで初めて美佐吾の世になきことを知ったのである。やがて、生きて甲斐なき我が身とかこち、この辺の逢瀬に身を投げて、はかなき恋を結んだという。

 

若草山 / 武蔵野

 かくて。美佐吾は死に臨んでなきながらを武蔵国へ送り、さねかづらの住むあたりに葬ってくれと遺言したのであったが、遺族の人たちはそれもできず、せめてもの美佐吾の霊を慰めるつもりで、若草山のふもとに葬ってやり、そこを武蔵野と名付けたということである。 

 なるほど、今日でも奈良には武蔵野というところがある嫩草山(わかくさやま)の麓のお休み所や売店のある辺一帯が武蔵野と呼ばれている。そこにかつて武蔵野屋という旅館もあったことを覚えている。しかし、美佐吾の墓は見当たらない。こうした物語から、この坂を逢坂と呼んだ呼んだのであろう

 

 名にしおはば / 逢坂山のさかねかづら / 人に知られでくるよしもがな

 

という三条右大臣の歌が、ふと思い出されて、もちろんこのまま信ずることはできないとしても、この、手の凝った物語には感心させられる。がしかし、江戸時代を隔たることはるかに遠い昔のことであった。今から約千年以上も前のことになる。江戸っ子の先祖がつけた名は、ただの大坂で、何の理屈もないのである。大きい坂だから大坂なのである。それを後世、付会好きの閑人階級の詩人たちによって、まことしやかな物語が作り出されたわけなのである。

 

横関英一の感慨

 坂からの見晴らしは素晴らしい。眼下には、さかねかづらが身を投げたという深淵が静かな水面を見せて、坂下にまで迫っている。前方の土手は、もちろんない。自然の岸に樹木が深く覆い、上流は今の市ヶ谷八幡社前から谷町の方へ延び、四谷見附のところの谷はなくて、四谷と麹町とが地続きになっている。どんど橋(飯田橋の古名)を過ぎて江戸川に合流して、九段下の方へ流れて行く。とにかく東京に欲しい風景であった。

 こんな情景を思い浮かべ、逢坂のあたりを歩いていると、作りごととは知りながらも、ふとさねかづらと美佐吾の伝説の中へ、いつの間にか溶け込んでしまうのである。

 なお、逢坂の別名を男坂ともいうのだが、これもやはり美佐吾とさかねかづらのロマンスに結びつけてできた名称であろう。それに玄及藤(さねかずら)を美男蔓(びなんかずら)とも言うから、男坂は面白いと思う。

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<編注>

『秀樹参照杉松』はこの2760号で101巻を終え、次号から102巻に入ります。

 

『秀樹杉松』101巻2760号 2018-12-28/hideki-sansho.hatenablog.com #400