いよいよ明日は大晦日。<坂研究>まねごと (11) 相生坂は、横関英一『江戸の坂 東京の坂』をテキストに、秀樹杉松坂めぐりの写真を添えてお届けします。坂めぐりの写真がこんな形で役立つとは。876坂の中から探し出すのは楽ではないが、嬉しい巡り合わせですね。 / Atelier秀樹
江戸時代から現代までの相生坂(あいおいざか)を並べてみると、およそ次の三つに分類することができる。
A 坂路が途中でY字型に分かれているもの
B 二つの坂が並行しているもの
C 二つの坂が離れて向き合っているもの
東京都内の相生坂は、今日ほとんど昔の形を残していないほどに道路をいじっているものもあるので、多少苦しい形になってはいるが、それでも現代の坂路から、相生坂と呼ばれた当時の形を想像することはできる。
(1) 相生坂(港区麻布一本松町)
今日でもこの坂の頂上の路上に、一本松という有名な松があ。ここから坂が二股に分かれて、左の方は今の暗闇坂(オーストリア大使館前)、右は長伝寺、特正寺、大黒天寺を、北東に下って行く一本松坂(大黒坂とも)である。
これはY字型の相生坂である。




↑ 暗闇坂 と 一本松坂 = 二つ合わせて相生坂
第1回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.21) / 写真:Atelier秀樹
(2) 相生坂(品川区下大崎二丁目)
これも品川台町の方から、雉神社前で左右の分かれていくY字型の相生坂である。西の方へゆく坂は、道路改修で恐ろしく変形してしまた。


↑ 相生坂(品川区)
第71回秀樹杉松坂めぐり(2018.8.17)/ 写真:Atelier秀樹
(3) 相生坂(文京区湯島一丁目)
神田川を挟んで、昌平橋の方へ下る駿河台の淡路坂と、聖堂前の昌平坂とを相生坂といった。相平行して同方向に下る坂なので、そう呼んだのである。だから、麓の橋をその頃は相生橋と呼んだ。(Bの型)
<編注>
坂研究まねごと(8)で既報のとおり、神田川を挟んで東西に並行す坂が「相生坂」でしたが、その後の変遷で今は、神田川の北側が相生坂、南側が淡路坂と呼ばれています。


↑ 相生坂(昌平坂) と 淡路坂 = 二つ合わせて相生坂
第19回(2018.1.1)、第92回(2018.10.14) 秀樹杉松坂めぐりの写真
/ 写真撮影:Atelier秀樹
『続江戸砂子』に「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂也」とある。これも平行型の相生坂の例である。別名を鼓坂(つづみざか)ともいう。『新編江戸志』はさらに「鼓坂。築土の方より小日向へ下る坂也。二つありてつづみのごとし」とも書いている。
(4)の相生坂のうちの一つ。西五軒町との境の坂をいう。(4)の坂の一つを言ったのである。そしてこの坂から北のほうに見える小日向の新坂と、この坂が南北向かい合っているから、相生坂と言ったというのだ。


↑ 相生坂 (東) と 相生坂 (西)
第11回(2018.1.1), 第87回(2018.10.3)秀樹杉松坂めぐりの写真
/ 撮影:Atelier秀樹
<相性の松>
同じ根本から生えた松を相性の松というのであれば、相生坂もY字型の方が原義に合うように思われる。『百草露』には、「播磨の国に高砂の松とてあるは、根はひとつにて、上はふたつに分かれて雌雄の双生也」とあって、これを相生の松と呼んでいる。日光の「相生の滝」も二つの滝が並んで落ちて、一つの流れに落ち合って、末は一本の川となって流れてゆく形のもので、明らかにY字型に属している。
二つの平行した坂路や大小二つの坂のくっついたもの、向き合っている坂などに、相生坂という名称をつけたことの方が、むしろ、おかしいくらいのものである。
<相生橋>
ここでさらに深く、相生の意味を探求するために、相生橋について、ABCの三つの型に分けてみたらどんなことになるであろうか。
A の相生橋
Y字型の相生橋は広島市内の太田川に架かる「相生橋」がよい例で、橋の途中から枝のように橋が分かれていて。ちょどそれがY字型になっている。築地の「三吉橋」に似た形式である。この形が本当の相生橋であろう。
B の相生橋
二つ並行している橋、これはありそうであるが、そのような橋に相生橋と名付けたものが、現在見当たらない。江戸では、二つ並んだ橋に相生橋とは名付けないようである。二つ並んだ「枕橋」とか「夫婦橋」とか、また二重橋などという相生型の橋はいろいろあるが、その意味の「相生橋」という名を持った橋は、まだ東京都内には発見しない。
中央に小さな島が一つあって、この島が大小二つの橋をつないでいる。こんな場合、それが坂であれば、江戸時代には、いつも夫婦坂(めおとざか)と呼んだものである。関西では、こうした橋の場合には、例えば三条大橋、三条小橋などと呼んでいる。
この例に従えば、この相生橋は、月島大橋、月島小橋と呼んだ方が、相生橋と呼ぶよりも、ぴったりするような気がする。
ところが最近、小橋の方がなくなってしまって、小橋のところを外から隠してしまうほどの高いコンクリートの防波堤が造られた。小橋の欄干はまだ残っている。欄干から橋の下をのぞくと、川がなくなってしまって土である。埋め立てになっている。
やがて、この欄干も取り去られるであろうが、その頃になると、どういうわけでこの一つしかない平凡な橋を相生橋と呼んだのか、全く訳が分からなくなってしまうであろう。
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『秀樹杉松』102巻2762号 2018-12-30/hideki-sansho.hatenablog.com #402