大晦日を迎えましたので、大超坂、妻恋坂、妻恋神社で、今年を締めることにします。どうぞお読みください。そして、来年もよろしくお願いいたします。皆様、よいお年をお迎えください。 / Atelier秀樹
文京区妻恋町(現:湯島三丁目)妻恋神社の前を、東に下る坂を妻恋坂(つまごいざか)と言う。ずっと昔は、大超坂(だいちょうざか)と言った。のちに、大長坂、大帳坂、大潮坂、大朝坂などといろいろ書かれた。同じ発音に、書き方がいくつもあるということは、その仮名の起因が、はっきり分かっていないからである。大超坂と書くのが本当で、他はみな当て字である。
<霊山寺 / 大超和尚 >
江戸の初期、寛永の頃、この坂の南側に霊山寺(りょうせんじ)というお寺があって、その開基を大超和尚といった。この開基の名大超が坂の名になったのである。大超和尚は地味で、徳望堅固な高僧であったという。
<大超坂>
慶長六年、霊山寺は徳川家康の命によって、白銀七十貫を専誉大超に寄せられ、、駿河台の梅坂(たぶん後の紅梅坂辺)に創立されたものだった。それが、寛永十二年、三代将軍家光の時代に、湯島に二万坪の替地をもらって移転することになった。後の妻恋坂の南側の地である。神田明神裏手の地である。この時代に、霊山寺の北脇の坂を、大超坂と呼んだようである。
明暦三年の大火のとき、霊山寺も類焼して、今度は浅草へ移ったが、その後でもこの坂は大超坂と呼ばれていた。しかし、世間の人々は年月が経つにつれて、大超和尚の名を忘れてしまって、いつかこの坂を大張坂、大長坂、大潮坂、大朝坂となどと書いたり言ったりしたのである。こうしたことは、一般民衆の耳学問の悲しさを暴露したもので、別に気にもとめないが、大潮坂と書いた知識人の多いのには、ちょっと気になった。
<大潮和尚 / 露山寺>
大超和尚よりずっと後に、大潮和尚という人が江戸で有名になった。この和尚は、肥後の龍津寺にいたが、生来文を好くして詩名も高く、江戸へ来て荻生徂徠の門下となり、当時有名であった服部南郭と藻を争って互角であったと言われた。九州に帰って露山寺に隠棲したが、晩年なお露山寺の大潮和尚として、世に高名を馳せた。
<霊山寺と露山寺、大超和尚と大潮和尚>
霊山寺の大超和尚とは、時代的に考えて約百年の隔たりがあった。ただ、霊山寺と露山寺、大超和尚と大潮和尚とがよく似ていたので、大超坂を大潮坂とまちがったのかもしれない。
現に、いろいろの人名辞典を見ても、大潮和尚は出ているが、大超和尚の名の載っていないものが多い。それほど、大潮は後々までも有名な詩人として、人気があったらしい。江戸末期に近い頃は、寺の和尚よりも、詩人の方が世にもてはやされた時代だったから仕方はあるまい。
<妻恋坂>
別名:大超坂、大長坂、大張坂、大潮坂
大超坂が、いつか妻恋坂と呼ばれるようになったのは、もちろん妻恋稲荷が、この坂の北側に移ってきてからのことである。それは明暦大火後、万治のころといわれる。(妻恋稲荷の旧地は湯島天神町旧一丁目の辺と伝えられる)
↑ 妻恋坂(文京区妻恋町=現:湯島三丁目)
第19回秀樹杉松坂めぐり(2018.1.1)/ 写真:Atelier秀樹
【編注】
妻恋稲荷(神社)が移転してきたことで、大超坂が妻恋坂と呼ばれるようになったとあるので、妻恋神社をWikipediaで調べました。
<妻恋神社>
この神社の創建年代等については不詳であるが、日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。
その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのが、この神社の起こりと伝えられる。その後、稲荷明神(倉稲魂命)が合祀された。江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、「関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かった。


↑ 妻恋神社(文京区妻恋町=現:湯島三丁目)
第19回秀樹杉松坂めぐり(2018.1.1)/ 写真:Atelier秀樹
『秀樹杉松』102巻2763号 2018-12-31/hideki-sansho.hatenablog.com #403