どれが本当の菊坂か
やや込み入った内容で、文献引用もありますが、横路氏の坂研究の真髄がうかがわれます。ぜひお読みください。1年前の「秀樹杉松坂めぐり」の写真も添えてありますので。 / Atelier秀樹
本郷の菊坂というのは、どの辺を言っているのであろうか。地名としての神楽坂や道玄坂は、必ずその坂を中心としているが、地名としての菊坂は坂を中心としていない。菊坂という坂がはっきりしていないためか、明治以降の菊坂町という地名に頼っているようだ。
地名としての菊坂町から考えてみると、最近の菊坂町と昔の菊坂町とは、その地域がだいぶ違っている。今日では、この辺は全て文京区本郷5丁目と改称されてしまったが、その前は、菊坂町というのは、本妙寺のあった辺、この辺の大体、谷のようなところの市街を含んだところであった。だから、本妙寺下から西北方田町の方へ行く長い緩やかな坂路を、菊坂通りなどと言っていたのである。
嘉永の頃の菊坂町は、その頃の阿部伊勢の守(最近の西片町)に近い方、胸突坂、梨木坂の坂下あたりが中心であって、明治の菊坂町は、本妙寺、長泉寺とその門前町が中心であり、明治の菊坂町は東の方が中心になっていた。だから明治以来、菊坂という名は、坂から離れて町名にのみ頼ってきたので、肝心の菊坂の存在を忘れてしまったのである。
江戸の地誌、絵図その他によって菊坂を探してみると、次の四つに分けることができる。
(1) 今の本妙寺坂を菊坂とするもの(本妙寺門前から弓町の方へ行く坂)
(2) 本妙寺、長泉寺前を西方町の方へ行く通りの坂。(今の菊坂)
(3) 梨木坂(梨坂とも)
(4) 胸突坂
なんといっても、菊坂はまず菊坂町にあった坂でなければならない。それも昔の菊坂町でなければならない。菊坂町の文政9年の菊畑についての「書上」をみると、次のように書いてある。
「同所(菊畑のあったところ)の坂を菊坂と唱へ、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱へ候」
坂上方が菊坂台町、坂下の方が菊坂町である坂は、(3)の梨木坂と(4)の胸突坂の二つだけである。しかし、梨木坂が本当は菊坂であるということにはならず、もちろん胸突坂が菊坂だということにはまだならない。しかし、次の菊坂町の「書き上」を読むと、どうやら胸突坂が本当の菊坂に近づいてきたように思われる。
→ 一、なし坂、この坂辺までにて菊畑之無き候故、いつの頃よりか、なし坂と唱へ候。一、菊坂、右二ヶ所共町方持ちにて、当所並びに菊坂台町両町持ちに御座候」
これによって、菊坂は菊坂町と菊坂台町の両町持ちの坂であることがわかった。菊坂と梨木坂(梨坂とも)とが出ていて、この条件に合う胸突坂という坂名が、どこにも見当たらない。そして、梨木坂は昔からの梨木坂であって、菊坂ではないということになる。菊坂と梨木坂とは立派に独立した二つの坂であった。ということは、梨木坂は、決して菊坂ではないということである。
菊坂の条件にピッタリする坂は、今の胸突坂以外にはないということがわかったのである。(略)
梨の木坂付近にかつて住んでいた戸田茂睡という人の書いた『紫の一本』が一番正確な記述を残していると思う。(略)
これで、胸突坂が、昔の菊坂であったことが証明されたわけだ。
<編注1>
因みに、梨木坂(梨坂) は梨に関係あるかと思いきや、上記の引用文献によれば、「この辺までで菊畑が無くなるので、いつの間にか「なし坂」と唱えられるようになった」とあります。この「なし坂」は「梨坂」ではなく「無坂」だった?
横関氏が菊坂の候補として最初にあげたのは、次の4坂です。この4坂には1年前に「秀樹杉松坂めぐり」行ってましたので、4坂を写真入りで掲げます。2ページにわたるので見にくいですが、地図の写真も出しました。
- 本妙寺坂
- 菊坂(今の) …… 菊坂通り(600mの長さ)
- 梨木坂(梨坂とも)
4. 胸突坂(むなつきざか) (別名:菊坂)= これが「本当の菊坂」
<編注2>
坂学会sakagakkai.org「坂のプロフィール」の「胸突坂」の由来説明には、次のように明記されています。
→
胸突坂 別名:菊坂
かつてはこの坂が「菊坂」と呼ばれていたが、現在の菊坂の方に名前を譲って、こちらは「胸突坂」となった。
『秀樹杉松』102巻2765号 2019-1-2/hideki-sansho.hatenablog.com #405