秀樹杉松

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<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(18)いもあらい坂と疱瘡神

 

今日の「いもあらい坂」は面白いです。横関氏の『江戸の坂 東京の坂』に、秀樹杉松坂めぐりの写真を添えてあります。どうぞお読みください。 / Atelier秀樹

 

 いもあらい坂は、芋洗坂一口坂などと書く。いもあらい坂は、東京にはいま三つしか残っていない。このいもあらい坂の「いもあらい」とは、どいう意味なのであろうか。そてよりも先ず「いも」とは何であるか。辞書には、「いも」は芋、妹を除けば、いもがさ、あばた(痘痕)、疱瘡(ほうそう)、天然痘(てんねんとう)などというのが、この場合一番近い解釈に思われる。

 疱瘡にかかった時に、それを軽く済ますために、神仏に祈願することは、種痘のない頃の昔であれば無理もない。このいもあらい」は、いも(種痘)を洗うことだとすれば、芋洗坂の解説も簡単になる。すなわち、芋洗坂とは一言にして、疱瘡神のそばの坂ということに尽きる。(略)

 

 東京小石川白山神社の山裾を流れる小川を「芋洗」と呼んだのも、この白山神社疱瘡神であるからである。白山権現の祭神は菊理姫である。菊理姫疱瘡神として信仰されていることは、菊の花が痘痕(あばた)に似ているからである。昔、菊面と書いてあばたと読んだのは、あばたが菊石に似ていたからであろう。

 

 もう一つ、浅草の今戸に白山権現があった。旧称亀岡町で、江戸時代には新町といったところである。昔、白山の石といったお守りの小石がこの神社から出ていたので、これを受けてくると疱瘡は大変軽く済んだということである。昔、武蔵多摩郡御嶽村に御嶽神社があった。その二つの鳥居の下を右の方へ行くと、そこに疱瘡神があった。祭神は菊理姫である。今、疱瘡神という。その他、瘡守(かさもり)稲荷笠守観音笠森神社なども、元はみな疱瘡神であったと考えて間違いない。

 

 以上、様々な疱瘡神の、いろいろの場合を考えて、芋洗の芋は疱瘡のことであって、芋洗とは疱瘡を洗うことだと断定しても良いと思う。これによって、すべての芋洗地名の内容が正しく解明できるのではないかと思う。

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 東京の「いもあらい坂の三つの坂について、改めて考えてみたい。

 

 (1) 一口坂(いもあらいざか)(千代田区神田駿河台淡路坂のこと)

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                第92回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.14  / 写真:Atelier秀樹)

 坂の頂上に一口(いもあらい)稲荷があったので、その名が移ったのである。この一口稲荷は後に太田稲荷と改称され、もと駿河台の神田川堀端の土手の上にあったが、今日では、主婦の友社の裏の方に移されている。この稲荷は、太田道灌が長禄2年に京の一口(いもあらい)の里から江戸城中に勧請したものと言われている。その後天正18年、徳川家康が入国と同時にこの稲荷を城中から駿河台の土手へ移したものであった。(略)

 

<編注>

一口稲荷(いもあらいいなり) / 太田稲荷 / 太田姫神

 第92回秀樹過ぎ松坂めぐりでお茶の水へ行った時に、道端で偶然に発見して驚き、(予備知識がなかったので) 夢中で撮ってきた写真です。ご覧ください。

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                     第92回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.14  / 写真:Atelier秀樹)

 

(2) 芋洗坂(港区麻布六本木五、六丁目境)

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                      第2回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.23  / 写真:Atelier秀樹)

『新編江戸志』に、「芋洗坂。日ヶ窪より六本木へ上る坂。坂下稲荷社あり、麻布氷川の持ち也。毎年秋、近在より芋を馬にて運び来たり、稲荷宮の辺にて日毎に市あり、ゆへに名づくるかと江戸砂子に見ゆ」とある。

 坂下の朝日稲荷の前で芋を売っていたので、この坂を芋洗坂といったと言うのであるが、それには説明が少し足りないようだ。この芋をどうするのか、この辺に小川なり池などはなかったのか。それに、朝日稲荷は「いもあらい稲荷」ではないので、疱瘡神とは考えられない。

 

(3) 一口坂千代田区九段北三丁目、四丁目境)

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            第10回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.8  / 写真:Atelier秀樹) 

 もとは、いもあらい坂といったのであるが、明治以後間違って、ひとくち坂と呼ぶようになってしまった。この一口坂のふもとには大きな沼があった。逢坂の「さねかづら」が身を投げたという伝説のある淵瀬が、この坂下に見えるようである。しかし、一口坂付近に疱瘡神があったとという記録が見当たらない。地図にもない。が、ここに何らかの疱瘡神がなければならない。それがないと、ここが「いもあらい坂」とは言えなくなってしまう。

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『秀樹杉松』102巻2771号 2019-1-6/hideki-sansho.hatenablog.com #411